東野圭吾 手紙

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あらすじ

武島剛志は犯罪を犯した。本人は単なる窃盗にするつもりだったが、目標の家宅で油断しているうちに発見されてしまったのだ。相手はたった一人の老婆であったが叫び声を上げられてしまった。黙らせれば佳いのだが、肉体労働で体を痛めている剛志ではなまなかに手を出しても上手くいくか自信が持てない。最終手段としては口を封じるよりほか手段はないのだ。そうして剛志は強盗殺人を犯してしまった。極度の興奮と現場から逃げなければ、という緊張は彼の冷静な思考を中断し状況の把握が出来ていなかった。彼は求める現金を手にしたのは良かったのだが、被害者の返り血を大量に浴びていた。それが直接的な証拠となってすぐに捕まってしまったのだった。


武島直貴は剛志の弟だ。剛志は勉強が出来なかったから出来る直貴に大学まで出るよう気を使ってくれていた。二人は両親を早くに亡くし、方便は剛志によって成り立っていた。しかし剛志が腰を痛め、上手く働けないようになってからは厳しい生活が続いていた。最終的に直貴を大学に入れるための金を剛志は工面しようとしたのだ。正直なところ直貴にとっては予想外の展開だ。自分のために犯罪を起し、挙げ句に人を殺して捕まってしまうほど切羽詰まっていたということだ。死んだ母の言葉である「大学を出てきちんとした仕事に就く」という遺志を剛志は何とかして継ごうとしていたのだろう。
しかし、行為は全て裏目に出てしまう。直貴は進学校の高校に進学していたが、大学への入試は金銭的にも辛く見送らねばならない。何しろ大黒柱の剛志はもう居ないのだ。生活するためには金が要るがその為の手段は直貴にはない。おまけに彼は世間的には殺人犯の弟というレッテルがついて回ってくる。働く場合にもそれが関係してくるし人の色眼鏡も鬱陶しい。
直貴は次第に剛志を憎んでいく。剛志のせいで直貴の人生は目茶苦茶だった。上手くいきそうになると剛志の話がぶり返されてくるのだ。自分だけならば我慢も出来る。だが、妻や娘に手出しをされるとなると・・・。直貴は決断することにした。

感想

東野圭吾二十作目。本作は犯罪者の家族の悲哀を描いた社会派タイプの話となっています。ミステリーを希望する向きにはちょっと肩すかしでしょうけど、こういった犯罪の側面を描く行為っていうのはノンフィクションの領分的な先入観が往々にしてあるわけで、こういう形での発表がなかなか意義深いと思います。それにしても作者はこういう話を書かせると相変わらず上手いですねぇ。
『トキオ』のような微妙な純真さ、一滴の毒、結末をステレオタイプから外そうとする筋書き、システマチックに考えれば考えるほどよくできています。とはいえ、好み云々ということになれば人それぞれでしょうが。
犯罪の被害者救済が叫ばれている昨今、何故か世間的には容疑者、受刑者の身内保護が先にされていたように思います。その理由が云われ無き悪意の対象として位置付けられてしまい、社会的に貶められることが容易にわかっていたからだったんですね。江戸時代以来の五人組制度なんかが根底にあるんでしょうが犯罪者を出した場合横並びに処罰されたりすることは随分続いてきました。閉鎖的な環境に有れば有るほどそれが差別問題と絡み合ってきます。それは現在でも少数ながら息づいていることは否定できません。この平成の世にですよ?
隣百姓と言われるぐらい日本人は世間体を気にしますし、周囲との調和を過剰なまでに求め波風を嫌います。それは厄介ごとは外からもたらされるという一種の信仰なんでしょう。内よりもたらされる物ではなく外的要素に因るというのは災害なんかがその筆頭でしょうね。それが雷獣やら雷様、ナマズに火男(ひょっとこ)、天狗に河童とこれらが擬人化的なコードとして機能したわけで、それが一種の社会的システムになっているのではないでしょうか。故にシステムに存在しないはずの異分子を排斥し、天災はどうにもならないがそれ以外の不安要素を取り除こうとするわけですね。流石に自分が関係していない事柄で割を食うのは嫌でしょうから。
また、未だ個人主義は浸透しておらず、村社会の延長線上にしか過ぎないのではないかと私なんかは考えました。個人主義が徹底すれば当人に直接関係のない事柄を鬼の首を取ったように問題視することも無くなるのではないか?と。しかし、それはあくまで理想論に過ぎませんよね。確かに殺人犯の身内だということは直接的被害は無いかもしれないが、何かしらの迷惑を被ることは有り得ない話ではないかもしれない、と考えてしまって第三者接触を極力控えても何ら不思議はないわけですから。それに完全に個人主義を取ろうとしても社会と関わっている以上社会的な影響を受けないわけにはいきません。流石に「血筋に犯罪者を出したのだからあの家は呪われている」とか「犯罪者の身内は犯罪者予備軍だ」などというのはあまりにラジカルすぎる意見ですから話になりませんがね。
大抵の所こういう話の場合は手をさしのべてくる善意の第三者がほとんど必ず出現します。そうなってくると「よかったねぇ」という丸く収まる話になるわけです。天地神明にかけて恥じぬ生き様を貫いていれば誰かは見ていてくれる、というわけですがこれも一種のコード化、つまりは定石化が図られています。作者はそこからまず話を外すことを考えたようです。でもそうなると一歩間違うとノワールどっぷりな話になりそうですよね。そこで現代風味を利かせることにしたようです。主人公は自分の選んだ道を歩くことを決意しました。ある意味でこれはこれで犯罪を犯した者への罰なのでしょう。でも一概にそうとも云えないのです。犯罪者の身内への罰はそれよりもひたすらに厳しいのですから。例えば殺人事件が起きたとします。刑事事件はいいのですが、問題は民事裁判の時ですね。民事裁判は犯罪者からの謝罪を求める場合に用いられます。しかし、訴状はあくまで謝罪を求める形、つまりは被害者サイドの思惑通りに話が進むわけではありません。最終的には金銭を要求する話になってしまうのですよ。しかし、受刑している当の犯罪者にはその賠償をするための手段がありませんから当然身内が引き受けねばならなくなるわけです。最低でも一千万円以上下手をすると一億を超える賠償金の支払いは人間関係を破壊するのに十分な破壊力を持っています。家財道具全てを売ってすら返済することが可能かどうか微妙なところですからねぇ。神戸の事件では加害者側の親がどれほど苦労をしているのかを考えさせられます。現在「懲罰的損害賠償金制度は日本には向かない」と裁判所は判断し導入していませんが、受刑することで罪が償われるわけではないし*1、被害者の手段として損害賠償を認めている以上懲罰的意味合いを持っている部分は否定できません。そもそも日本の刑務所というのは居心地が良すぎる部分がありますし、また管理をするだけで実質的な更正の為の手段を持っていない欠陥を抱えています。今回はテーマ的にそこがメインでないので外されていますが、そういう側面があることを考えつつ読むと良いのではないでしょうか。*2
語り口は軽妙でぐいぐい引き込まれるのはいつも通り。構成はシンプルに纏まっていて軽く読むのに適しています。
75点
救いもないが決定的な罰も欠けているので大局的な解答には成り得ていないと思う。「云われ無き差別を受ける加害者の身内」という問題提起をしたことは着眼点の鋭さに感応するが、その先を描いていないのが不満かな。一番佳いところで打ち切られちゃったように感じるのよ。定められた「コレ!」っていう解答がないだけにもうちょっと突っ込んで欲しかったなぁ。

参考リンク

手紙
手紙
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東野 圭吾
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*1:一応償われることにはなっているけどね

*2:なお、そこら辺に興味を持ったならば高野和明の『十三階段』とかが面白いかも