フィリップ・K・ディック 逆まわりの世界

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あらすじ

死者が墓穴から蘇り、生者は退行して誰かの胎内に戻っていく。この奇妙な現象はホバート位相(フェイズ)と呼ばれる空間的な物理現象で、時間の進み方が通常の方向から逆の方向へまわっていると説明すると分かりやすいかもしれない。人間の意識はあまり変わらないが、タバコを吸うという行為は逆に煙をタバコに戻し空気を綺麗にするし、食べ物は吐き出して元の形に戻すものなのだ。従って人間を構成する肉体の死がかつて起こっていたとしても、ホバート位相以後に事故にあったりしたのではない限りは死の淵から戻ってくるのだ、完全な形で。地球を覆うこの現象が一体いつまで続くのかはわからないが、人々は既にこの異様な状況に慣れてしまっていた。
セバスチャン・ヘルメスはこのホバート位相によって恩恵を受けた一人だ。彼もかつては死人であった。地中に埋められた棺の中で暗闇と空気がなくなるのではないのかという切迫した恐怖に身もだえたのはそう昔のことではない。死から生へ、緩慢な遷移を辿り、彼は世界へ帰還した。老生者(オールド・ボーン)はその人物を発掘した会社によって管理される。そして適当な値段で売られることとなるのだが、セバスチャンは現在かつて自分を発掘した者たちと同じ職業に就いていた。彼は自前のヘルメス・バイタリュウム商会というこぢんまりとした会社を経営していた。従業員は彼と妻を入れてたった五人。それでも成り立っているのだから、いかにこの職業が世に求められているかがうかがい知れよう。
そのセバスチャンがチャンスを掴んだのはたまたまだった。知り合いのティンベイン巡査が墓地の見回りでミセス・ティリィ・M・ベントンという老生者を発見し、警察の発掘班がこれないということでセバスチャンに渡りを付けたのだ。ベントン夫人を掘り出した近くに思わぬ宝物を発見したのは偶然以外のなにものでもない。老生者の中には大変な人物が紛れていることがある。セバスチャンが見つけたのはトマス・ピーク、今一番ホットな教団の始祖だ。ユーディ教徒と呼ばれる連中は大枚はたいてくれるのは間違いない。死から蘇った教祖なのだから喉から手が出るほど欲しいだろう。セバスチャンは若い妻に図書館でピークに関する書類を調べてくるよう申しつけた。そう、あとはピークが無事にこの世に戻ってくるのを待つだけだ。

感想

フィリップ・K・ディックの本はこれで六作目です。
あらすじ読めばわかると思いますが、本作は思いっきりSFらしいガジェットを用いて書かれた本です。一応現在では電波観測からこの現象に近いことが起きうることが証明されていたと記憶しています。すなわち、時間の向きが現在の順方向ではなく逆方向に向いている銀河系、天体が有るということですが、我々がその空間に入ったらどんなことになるかちょっと説明が難しいですね。ちなみに、本書は逆まわりの時間軸をテーマにこの本を書いていますが、厳密さはあまりないようです。例えば墓穴から叫ぶ老生者が蘇ったとしますが、行動その物が逆転しているのだとしたらおかしなことになってしまうのですよ。通常空気から酸素を吸い出して二酸化炭素が濃くなった空気を吐き出すわけですが、この順序が逆になった場合は二酸化炭素を吸って酸素を満たすということになるわけで、我々動物は二酸化炭素を消費する側になるわけです。他にも尾籠な話ですが食事一つとってみてもその行為は体内から食物を吐き出すという行動になっています。さて、それはいいとしてもそれ以前はどうなっているのでしょう。屎尿を体内に何らかの方法で戻さなければ質量保存則が成り立ちません。ということで、ここで一つ仮説を立ててみます。作中に何度も登場する嗜好品としてソウガムという得体の知れない物体が出てきます。タバコ自体は嗜好品として残っていますが、これは香りを楽しむ行為としてあり得るからです。酒にせよコーヒーにせよ、飲むという行動が伴っている為にホバート位相の逆まわしの世界では意味を成しません。況(いわん)や薬物もです。だとするならば唯一摂取できる者は体外へ放出している物なのではないでしょうか。ということはソウガムは屎尿や老廃物の類の可能性があります。こう考えるとうげげとなるぐらい実に気持ちが悪い限りですが・・・これぐらいしか可能性が残されてないんですよねぇ。
ま、このガジェットの整合性についてはほとんど遺棄されてるのであんまり深く考えてもどうしようもないんですけどね。例えば胎児へ逆行した人物は誰かの胎内に戻ればいいわけで、必ずしも遺伝的に自分の母親の所へ戻る必要はないわけです。偏執的な図書館が書物を知識を回収してまわっていること自体もリアルさを醸し出すためにやってる訣じゃないし、あくまでギミックですからね。
悪夢的な世界観という意味では実にディックらしい世界観ですが、なんともやり場のない感情を産みますね。特に暴力衝動は相当に厄介です。ぶつける先が一切ありませんからフラストレーションが溜まるでしょう。主人公が蘇って数年の老人だとしてもあまりにもストイックなんですよ。少しで良いから発散してくれればスカッとしたんですがねぇ。まぁ、マゾヒズム的に主人公が傷つくのはお約束の一種だと考えるといつも通りっちゃあいつも通り。
あと今回はやたらに宗教がらみです。死者の再生その物が基督教根本教理の一つですから致し方のないことですがそれにしても宗教的過ぎませんか。神秘体験は言うに及ばず、幻視を見たり、抹香臭いったらありゃしねぇ。
それにしても図書館が情報削除組織として非合法な結社化しているのはなんなんだろう。情報の削除その物に意味はないと思うんだがなぁ・・・。ディックにありがちなアメリカ政府以下の公的組織への不信が原因なのかもしれない。図書館というともっと穏やかな感じがするけれど、この場合民間人への情報統制を意識してるんかな。アメリカも5つに分裂してるし、まるで『高い城の男』みたい。
今回もストーリー的に終結を付けずに終了。後味悪いのは別に良いんだけど、どんな形であれ終わりが欲しいなぁと思いました。
70点
ヨブを作者は意識したんだろうか。

参考リンク

逆まわりの世界
逆まわりの世界
posted with amazlet on 06.04.11
フィリップ K.ディック 小尾 芙佐
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