浅暮三文 カニスの血を嗣ぐ

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あらすじ

阿川は人から見ると奇妙な行動をとりがちな男だ。その行動とは四つんばいになり、往来で人目を気にしながら匂いを嗅ぐという物だ。
普通の人間ならば奇癖の類ですまされるこの行動も、彼自身にはきちんとした理由があった。そう、彼ぐらいにしかわからない秘密の理由が。
阿川はカニスの血族なのだ。カニスとはラテン語で犬を意味する。犬は人の社会ではしばしば貶められ、低俗な意味のスラングに変形するが人間以上に純粋で未だエデンの東に住まう彼らを人間が貶めることは卑下にしかならない。だが、それを人間が気がつくことは稀だ。それに聖書がなんと言おうと彼らは我ら人間の最も古い友人なのだから。
犬である彼らは人間には理解の出来ない手段で会話をする。吠えるという行動も確かにコミュニケーションの手段であるが、彼らは専らそれ以外の方法で意思の疎通を行っている。人間のそれはあまりに退化しているため気がつくことは無理だろう。
匂い。それが全ての答えだ。阿川にはそれで十分だった。

阿川がこうなる以前は広告業界で働いていた。職種はデザイナーだったが、世間が思っているよりもずっと地味でハードな仕事で彼は体調を崩した。睡眠時間を削り、フラフラになりながらも常に次の一歩を考えてまわりを蹴落とさねば自身の築いてきた道はあっという間に閉ざされる。クリエーターにとって立ち止まることは死その物だ。紙一重の緊張を彼はずっと続けてきたのだ。そしてその張りつめた緊張の糸はひた隠しにしてきた病の付帯症状の悪化で決定的な瞬間を迎えてしまう。
結果自動車事故で彼は自身の仕事に欠かせない大事な左目を失った。その後無理をおして右目だけで仕事を続けようと這いずり回ったが、負担は右目に重くのしかかり、機能はみるみる落ちていったので現在の生活からのドロップアウトを余儀なくされたのだ。
以来彼は生活の水準を落とし、人とあまり触れ合わない生活を続けることになる。
アジソン病、それが阿川が終生付き合わなければならない病だ。この病の所為で阿川の顔相は黒く煤けている。沈殿する染みは澱の如くぬぐい去れるわけではない。またこの病気は極稀に阿川のような症状を催す場合もある。有名なのはケネディ元大統領だろう。ケネディは人の十倍嗅覚が優れていたという。治療に専念しなかった阿川はその比ではない。人という殻を揺さぶる嗅覚は既に目と同様のレベルにまで達していた。匂いが視覚並みにわかるのだ。雨が降らなければ何週間前の匂いでもかぎつけることが出来るのだが、そう便利なわけではない。何よりも体臭がわかり何を考えているか他人を丸裸に出来るからと言って、この異能は苦痛以外のなにものでもないのだ。優しい心地よい匂いよりも世には不快な匂いの方が満ちている。普通の尺度では推し量れないこの異能を持つ者にとって強烈な匂いは暴力であった。

現在の彼は人混みを避け、静かで小さなバーの雇われマスターをしている。そんな彼の唯一の娯楽が初めの行動だ。人間には推し量れない犬たちの匂い付けによる会話をのぞき見することが心の安まる時間であった。

そんな阿川が目を掛けている野犬の小集団が居た。リーダー犬の精悍なシェパードに彼はブラッキーと付けていた。ブラッキー達は阿川に完全に気を許してはいないが客分ぐらいには思っていてくれるようでそれなりに親しかった。
だが、平穏はブラッキーの死で終わった。阿川が目にしたのは血を流さずにただ動かなくなったブラッキーであった。ブラッキーはゆるやかな死の匂いを漂わせて死んでいた。前足で顔を抱え込むようにして吐瀉物まみれになっていたブラッキーにかつての威厳は感じられない。匂いは阿川に状況を説明してくれていた。ブラッキーが死んだのは三時間ほど前で、誰か女性から菓子を貰い食べて死んだ。匂いは嘘をつかない。ブラッキーは殺されたのだ。
その夜阿川は店が休みなので偶に行くバーへ寄って一人の女性と出会った。マイコと名乗った女性からは男を求める発情の体臭が色濃く感じられ、阿川はそのお眼鏡に叶ったらしい。だが、阿川にはそれよりももっと気になったことがあった。彼女の体臭こそブラッキーの側にあったものと同一であることは間違いないないのだ。ベッドで一時を交わし、そして二人は別れた。種はまいておいた。死んだ犬の側にいなかったか?と。
翌日、一睡もしなかった阿川は日が明けたばかりの早朝の街をフラフラと歩いていて警察の実況見分にぶち当たった。青いブルーシートの下からはマイコの匂いがした。マイコはブラッキーのように死んだのだ。
マイコを調べようと彼女の匂いを辿り、死ぬ前にいた家の表札を確認した。その名前はこの生活の前を連想させずにはいられない名前だった。彼はマイコの過去を洗うことを決意した。そして彼は行動し、警告を受けた。殺された仔犬の死骸が玄関口においてあったのだ。ぷんと香る匂いに阿川は驚愕を隠せない。何故ならばその匂いは既に死んだはずのマイコのものだったから。匂いは嘘をつかない。指紋のように人によって固有の体臭がある。ではこの匂いは一体何だというのだろう。疑惑は更に募っていく。

感想

浅暮三文の本を読むのはこれで四作目。今回も前回に引き続き異常感覚シリーズです。焦点は嗅覚。
なんとなく古川日出男を意識させる乾いて重たくて圧倒されるんだけどダウナーな筆致がずしーんと乗っかかってきます。ハードボイルド的な文章である訣ですがこういう文章が駄目な人は向いてません。ひたすらに怒濤の匂いの描写が始まると気持ち悪さ抜群の屎尿と性的ホルモンの漂う異界へと読者は誘われるのですから。
ストーリーは前半主人公の意思がはっきりせず、ただなんとなくやっていることになっていますが、中盤で執着の種明かし、後半で怒濤の追い上げを見せます。でも、鈍重なイメージは覆せないんですよね。どこもかしこも匂いの描写で埋まっているし、感情は埋没しているから疾走感はほとんどなし。爽快さがないのが痛いなぁ。結末も一応伏線はあるけれど、予想の範囲内だし、犯人自体「指紋のように一致しないはずの固有の体臭が死人と同じ」となったら可能性は一つしかないわけで。ミステリーとしての魅力には甚だ欠けるのは仕方ない。状況の異常性を楽しむ乱歩的な作品と考えた方がいいのではないでしょうかね。
残念なのは描写で言葉に淫するだけの力がないということかな。嫌悪感が募るだけではなくて、そこにもうひと味足されていれば良かったんだけどそこまでは行かなかったか。
ただまぁ、この匂いって要素はミステリーの中では面白く機能しそうではある。クローズド・サークルにおいて最も大きな利点は科学捜査の不介入だ。推理という論理に頼るのも佳いかもしれないが、明確な証拠は物証としてあげた方が佳い。不確かな可能性要理も確かな事実の方が優先されるべきだ。なお、現代の捜査技術はかつての名探偵達が警察を馬鹿にすることが出来ないほどのレベルにまで来ている。窃盗や強盗ならまだしも、殺人となればそれなりの物証が出てこない方がおかしい。肉眼では見逃してしまうような痕跡を化学反応や電子顕微鏡、はてはスプリング・エイトにかければわからないことも見えてきます。必ずしも論理で遊ぶ必要性があるわけではないのですよ。
で、この物語の主人公のように嗅覚が異常発達した人物であれば、その科学捜査的な常人にはわかるはずのないことが見えてきます。それぞれの人物の移動を追うことも出来ますし、目には見えないことも匂ってきます。頭を使うまでもなく、匂いで誰が誰を殺したか、それは明確ですね。クローズド・サークルの場合は主に室内ですから匂いがとぎれる可能性も少ないでしょう。
と、このようにこの能力はミステリーの醍醐味をひっくり返すことが可能なガジェットです。本格好きな人からすると無粋でしょうねぇ。故に本書においてはクローズド・サークルを採用せずに長距離間移動を用いることにしたようですが、練り込みが足らなかったようです。異常感覚を読者に伝えることが出来てもそれ以外は凡庸ですから。もう一歩踏み込んだ方が良かったんじゃないかなぁ。
ミステリーの形式をとっているのですから、結末を含めてもっとサスペンス的な要素やドンデンが有った方が楽しめたと思います。やや尻切れトンボな終わり方にちょっと不満あり。もうちょっと十ページ二十ページぐらい書いてきちんと終わらせれば良かったのに。
とは言えユニークさでは群を抜いている。
70点
古川日出男の名が出てきたのは『ベルカ、吠えないのか?』と同じく犬が表紙になっているからですが、本書のデザインはどう見ても「ブラック・ラブラドール」ですよ?ブラッキーって「シェパード」じゃなかったっけ?なんでこうなったんだろ。
蛇足:作中に登場する紫色の花を私はてっきりトリカブトだとばかり思っていましたが、ロベリアソウ*1だったんですね。普通はソウの部分を除いてロベリアの方が通りが良いようです。
追記:また一度全部消えましたorz。勘弁してほしいよほんと。

参考リンク

カニスの血を嗣ぐ
カニスの血を嗣ぐ
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浅暮 三文
講談社 (1999/08)
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*1:和名ではルリチョウソウ(瑠璃蝶草)、またはルリチョウチョウ(瑠璃蝶々)別名ルリミゾカクシ(瑠璃溝隠)