森博嗣 今はもうない

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あらすじ

西之園萌絵はご自慢の奸智をめぐらして千載一遇のチャンスをものにした。というととてつもないことをしているように聞こえるが、実際は犀川助教授をドライブに誘って承諾を受けたに過ぎない。とはいえ、休日という概念のない朴念仁が研究室から出てわざわざこんな所までついてきてくれると言うこと自体僥倖といわねばならないのだ。
空調の効いた部屋にコーヒーとコンピュータさえあれば幸せで、黙々と研究に打ち込む彼が嫌うのは時間の浪費だ。ドライブというのは風景を眺めるという意味では移動中は佳いかもしれないが、実に手持ちぶさたである。会話のキャッチボールが出来る間柄だからこそなせる技だが、必要がなければ黙々としている犀川との異文化コミュニケーションを萌絵が楽しんでも犀川自身が愉しいとは限らない。そこで萌絵はある話を話し始める。勿論ミステリーだ。今向かっている西之園家の別荘の隣で起きた事件である。

笹木は森を歩いていた。フィアンセである石野真梨子の仲介で橋爪氏の別荘へやってきていたのだ。隣家へは5kmほどもある緑豊かな山林をただ一人黙々と歩いているには訣があった。彼は不愉快だったのだ。真梨子は常に高慢な態度で彼に接する。特に理由もなしにだ。しばらく顔を合わせたくない気分だったから別荘から離れ、一人孤独を噛みしめていたというわけだ。別荘の持ち主の橋爪怜司氏から廃線になった森林鉄道があるという話を聞いていたのでその遺棄された線路を見に来たという部分もある。彼は自然が好きだった。ただある自然を見ながら気を落ち着かせようとしていた。そこへひょっこり現れたのが令嬢然とした女性であった。彼女は麓へ下りたいという。しかし見るからに格好は山林を行くのには不似合いなのだ。街角のカフェでならば問題のない衣装も機能性という面では著しく劣っている。その格好では無理だし、県道が通っているのは今二人がいる地点とは全く反対側であることを説明した後、笹木は事情を聞いてみた。
西之園と名乗った彼女は叔母の無体をこき下ろした。なんでも彼女に黙って見合いを進めていたのだという。激怒した彼女は叔母と見合い相手を放り出して道なき道を歩いてきたという。彼女はどうしても別荘には戻りたくないということで笹木に駅まで車で送ってくれることを頼んだ。一応了解した笹木だったが、現金なことに彼女にであったことで不機嫌な感情の渦がどこかへ行ってしまい、うきうきした気分になった。一分一秒でも長く一緒にいたいと気分は高揚してくる。おあつらえ向きに天候はどんどん悪くなってきた。結局西之園嬢を橋爪氏の別荘へ連れ帰る以外に道はなかった。
さて、その状況をどう説明したものか。衝動的に連れ帰ってきたのはいいが、いいわけを全く考えていなかった笹木は困ってしまった。とりあえず自分に割り当てられている部屋に西之園嬢を入れてシャワーを浴びるように言い置いた。二人とも帰ってくる頃には汗みどろでその上雨に降られてびしょぬれだったからだ。笹木はフィアンセに話をするのは当然うまくないと考えてここの責任者に話を通しておくことにした。橋爪怜司氏は笹木の言に少し驚いたようだったが、好色そうに目をすがめ少しうらやましそうに「なんにしても、ラッキィな人だ」と笑いを含みながら笹木の願いを叶えてくれた。幸いなことに怜司氏はファッションデザイナーである。西之園嬢に似合う服は沢山あったので彼女の着替えの調達は考えたより楽に出来た。
ここで橋爪家の別荘に来ている人物を整理しておこう。笹木と真梨子が来ているぐらいだから部外者が少なくない。
まずは橋爪怜司氏。言わずとしれたこの建物の持ち主だ。笹木自身に面識があったわけではないが、それなりに感じの良い上品な人物である。
その怜司氏の息子の清太郎君もまた来ていた。彼はT大の医学部に籍を置く学生だ。外見的には今風の美男子という奴であるが、当然秀才だ。神は二物を与えたもうた。
モデルをしているという神谷美鈴嬢は物憂げな物腰で常に気だるい雰囲気を醸し出している。モデルというだけに長身でスタイルは抜群だが、その物腰からどことなくマネキン人形を連想させる。彼女は職業柄怜司氏と出会ったのだろう。
怜司氏がパトロンをしているという二人の姉妹、朝海由季子嬢と耶素子嬢でゲストは打ち止め。二人は姉妹と言うことで非常に容貌が似通っているが双子というわけではない。ちなみに由季子嬢の方が姉と言うことらしい。彼女たちは女優ということらしかったが、テレビなのか舞台なのか映画なのか、詳しくない笹木にはよくわからない。確かに美人であったが笹木に対してちょっと愛想がないため冷たく感じることもあった。
最後に残ったのはこの家の雑事を取り仕切る使用人の滝本だ。彼は年配の上品な男性で物腰は柔らか、そして控えめな佇まいで古式ゆかしい執事を思い起こさせる人物だ。
結局新たにやってきた西之園嬢を除くと八人の人間がいたということだ。
事件はその夜起こった。
早々に帰る予定だった西之園嬢だが、説得に笹木だけでなく怜司氏も加わったことで泊まることになった。折悪しく台風が接近してきていて天候が良くないのと危険だということも作用したのだろう。
会食をした後、雑談やゲームに興じた後それぞれ自分の部屋に引き上げていった。笹木は自分の部屋で眠ろうとしたが、そこに真梨子がやってきて二人で寝ることにしたが、笹木は寝入る前に少し今日有ったことを考えながらタバコを吸っていた。そこにかすかにドアをノックする音がした。一度ではなく数度にわたって繰り返されたため少し気になって出てみると西之園嬢だった。笹木は廊下に出て素早くドアを閉めた。狼狽していたことは否めない。色っぽいお誘いかとおもいきや、彼女が笹木を訪ねた理由は先ほど階上で何か物音がしたということが気になるという内容だった。勿論笹木はそんな物音は聞いていない。彼らが割り当てられているのは二階で三階には誰もいないはずだ。何しろ三階には娯楽室があるっきりで宿泊用のベッドなどない。西之園嬢は三階に行って様子を確かめようとしたらしいのだがドアに鍵がかかっていたらしい。鍵は内側からしか掛けられないタイプの物だったので誰かが中にいるのは確かだろう。それに映写室があることから映画を見ているのかもしれない。物音は映画の音の可能性もある。
それを示唆した笹木は西之園嬢と共に一度現場に向かった。ノックを試みて鍵を確かめるが、やはりしまっている。笹木はここでふとよこしまなことを考えた。下でコーヒーを飲もうと誘ったのだ。
二人でコーヒーを飲みながら話をしていると清太郎君がやってきた。娯楽室のことを聞いてみるが彼ではなかったらしい。清太郎は朝海姉妹が部屋にいなかったことを告げた。そこへ怜司氏も現れて事情を説明した。娯楽室とその隣の映写室は両方とも中からでないと鍵は掛けられない。怜司氏の了解を取った後、ドアを破壊して中を調べることにした。怜司氏は滝本を起してドアを開けるための工具を取りに行かせた。
ドアを破壊してみると・・・煌々と電気がついている中、娯楽室の中央に倒れている女性がいた。映写機は無機質にスタッフロールを無音で流し続けている。清太郎君が駆け寄り、既に死亡していることがわかった。笹木も一応調べてみる。体温・鼓動は感じられず、首の所に索状痕が認められた。女性は朝海姉妹のどちらかだろう。笹木は隣の映写室のドアも破壊して中に踏み込んだ。やはりそこには朝海姉妹のもう片方が倒れていた。首筋はよく見えなかったが、死んでいることに間違いはなさそうだ。
二人の人物の死は自殺なのか、それとも他殺なのか・・・。笹木は西之園嬢に引きずられながらこの嵐の山荘の密室の謎を解こうとする。

感想

森博嗣のSMシリーズ八作目。合わない合わないと思っていた作者の作品ですが、今回は珍しく合ったようです。
一応今回はシリーズの主役である犀川と萌絵は脇に追いやられています。主人公は事件の当事者の笹木氏です。その為視点主人公も主に笹木氏が担当しています。被害者と主人公二人以外で叙述人物がいるというのは今までで初めてじゃないですかね。それがどうにも邪推を招いた部分は否定できません。しかし、これだけ遠大な叙述トリックを使われるとすっかり騙されちゃいますね。メタだろうとか『アクロイド殺し』の様な筋立てだろうとか考えていましたが考えるだけ無駄って奴でした。
今回は二つのキーポイントがあります。事件の謎とそれ以外の謎、その二つが相まって作品が引き立てられています。こう言っちゃなんですが事件の謎というのはかなりいい加減です。あくまで事件は蛇足でそれ以外の部分がメインの構成になっていますから事件部分の解法を期待する向きは期待はずれかもしれません。事実、私でも解けるぐらいですから簡単ですし。でもだからといって内容が劣るという訣じゃあないんで安心してください。
あと、本作は理系ミステリらしさが抜けているためある意味でとても異色な作品です。犀川が登場すると唐突にそれが復活しますが、それ以外ではごく普通のミステリといった雰囲気です。唐突にブラウン運動がどうのとか、事象の可能性がどうのといった中身に関係のない脱線が少ないので恐らく合わなかった人もこれならば読めるんじゃないでしょうか。私としてはやっぱり犀川不在の方が読みやすいなぁ。無理矢理科学的な話を叙情的な文章として用いられてもうんざりするだけですし。
なお、あらすじでは端折ってしまいましたが所謂嵐の山荘です。電話線も切れているので無線で連絡するというのも作者ならではです。芸は身を助けくの典型ですかね。
重箱隅ですがコカインに関する作者の考えは相当に適当な気がします。普通は口内の歯茎か、鼻の穴へ吸引する粘膜摂取が普通で静脈注射は重度の依存症患者でないと有り得ないですよ。静脈注射というのは効果の即効性を狙う物でありますが、同時に量が増えているからこそやる物*1ですからねぇ。一応それ以外に水酸化ナトリウムと一緒に煮沸することで遊離型のクラックコカインにして火であぶって煙にして吸い込むというパターンもあります。コカインはアッパー系ドラッグとして覚醒剤と同様*2に考えられている薬物ですから、依存症になったら感情表現が薬の有無と密接に関わってきて非常に分かりやすい行動をとるでしょう。まぁ、離脱反応部分に着目したんでしょうがね。なお、純コカインは無臭です。
ま、それはおいておくとしてもシリーズの番外編として楽しむのが適当でしょうね。騙される快感を楽しめる一冊でした。
75点

参考リンク

今はもうない―SWITCH BACK
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今はもうない
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*1:大量のコカインを歯茎になすりまくっている姿を連想してみてください。あるいはゲホゲホ言いながら鼻へ大量の粉末を吸い込みまくっている姿でも可。

*2:実際刺激の度合いはコカインの方が上らしい。