横山秀夫 クライマーズ・ハイ

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あらすじ

昭和六十年八月の十二日、その事故は起こった。北関東新聞社の人間は地元の甲子園組と首相の靖国神社の参拝に気を取られて、地元の大事件が起こりうることを予想もしていなかったのだ。そりゃあそうだ、地元の記者ですら後々まで「もらい事故」と感じていたのだから。その事故とは「日本航空ジャンボ機123便の墜落」であった。
その報道が「ピーコ」と呼ばれる共同通信のニュースを伝えるスピーカーから伝えられると、北関に詰めていた記者達は皆浮き足だった、「ピーコ」は鳴りやむことがないBGMの様に甲高く鳴っているが情報は錯綜していた。「長野と群馬の県境に墜落」という事だったが具体的な場所は解らない。紙面作りをする上では重要のことであるし、飛ばし記事を書くわけにもいかない。
当時一人遊軍という気楽な立場に居た悠木和雅はその日の仕事を切り上げたら、安西耿太郎と共に谷川岳にある衝立岩に挑戦するはずだった。しかし、上司からの命で日航機墜落事件の全権デスクを押しつけられることになり、行くことは出来なくなった。
それにしてもまずは墜落場所の特定だ。県警・自衛隊・米軍それぞれに情報は入り乱れる。なにしろ自衛隊は当初旅客機に誤射があったか無かったか、そんな事を口外してしまったり、状況は混沌としていた。こんな事ならば無線機導入をもっと早くして貰っておけばよかった、そうその場に居た者達は思っていた。群馬県はこの日航機墜落以前の大事件といえばたった二つしかない。「大久保事件」と「連合赤軍事件」の事だ。先輩記者達はそれを誇りとして手柄話の自慢に明け暮れていた。悠木は全権デスクという動くことの出来ない場所を与えられてしまったが為に現場の空気を吸うことは出来なくなった。それから悠木の長井一週間が始まる・・・。

悠木和雅はあの日果たせなかった約束を果たしに谷川岳にやってきた。そう、衝立岩を登るのだ。本来登るのは十七年も前のはずだった。しかし、相方となるべき安西耿太郎はその前に倒れ、逝った。それ以来耿太郎の息子である安西燐太郎の父親代わりの如く山に行くようになった。意外なことに安西は息子を山へ一度もつれていかなかったのだという。悠木は燐太郎を利用しながら距離感のつかめていなかった息子の淳との交流をもはかっていた。そうして、ついに衝立岩への慰霊登山となったのだった。今回は淳は居ない、二人だけで登るのだ。あのベテラン登山家すらも飲み込んでしまうそそり立つ巨壁へ。

感想

横山秀夫二作目。本書の題名『クライマーズ・ハイ』とはランナーズ・ハイなどと同じで一心不乱な行動により心理的にハイ状態になって恐怖や疲労、肉体的苦痛を忘れる状態を指します。作者曰く解けた時が一番恐ろしいんだそうな。突如として恐怖心が募りその先一センチたりとも進めなくなってしまったりもするとか。
一瞬登山小説か?と思わせる本書ですが一部イエスであり、大部分ノーであります。確かに登山ネタは出てきますけど、大半は日航機123号事件に終始します。つまり、サスペンス的ミステリーなわけで・・・。
元々この本は作者の横山秀夫上毛新聞社の社員時代に起こった日航機事件をマスコミの現場から見た視点で描いた物です。恐らくフィクション部分だけではなく、実際に現場で起こったことも含まれていることでしょうね。ただ、当時は多分勤続六年目ということで劇中登場人物でいうと中途半端な位置っぽくて主人公が作者自身ではないようです。しかし、その場にいたのは確かなので、現場の人物を再構成したのではないでしょうか。もしかしたら似たような事は起きたのかもしれません。しかし、我々には作者が語る以上のことは決して解らないので判断のしようがないのもまた事実です。
登場人物の中では個人的には佐山がいい感じ。地獄を見てきた臨場感がしっかり出てますからね。かなり頑張って事件の取材を行っているのにことごとくその頑張りが空回りしてしまっているのが可哀想なぐらいです。まぁ、時代が時代ですから自衛隊アレルギーのアホとか、過激派のシンパがマスコミにいても決しておかしくない時代です。未だにワラワラ涌いて出るくらい居ますからね。中国が素晴らしいだの北朝鮮が地上の楽園だの、大虐殺を行ったポル・ポトがいい人だの、事実を観ようとしない連中が巣くってますから。
それは兎も角として、現場の伊吹を感じることの出来る瞬間はぞくぞくしますね。一体感の様な物を感じましたよ。鳥肌が立ち、電気が走ったのは本書の最初の方でした。それを感じたときには「やられた」と思いましたが今回も前回の『半落ち』ほどではない物の後半に向かえば向かうほどいろいろと見えてきながら混沌としてくる話となっていました。何かを成し遂げる、達成、成功という物は作者にとって些事のようです。不完全さにこそ神が宿るとでもいいたそうですね。恐らく藤原伊織の小説に創作特有の都合の良さばかりが目立つと感じる人が読むと丁度いいのかもしれません。
ただ難点も一点。あれだけやって成果はゼロという大惨敗で現場からは無能扱いをされ、大失態にも関わらず何故か主人公は擁護されるのです。なれ合いって奴ですよ。日本人は判官贔屓体質ですからちょっとわからなくもないですけど、あまりにも擁護へと傾く様が激しすぎて不自然きわまりないんですよね。不自然さが盲目になるほどの内容はその前に無かったと思うんですけど有りました?。あそこはクライマックスとしたのは判断ミスかと。仲良しごっこの域を出られてないのは残念です。一気にリアリティが崩壊しちゃったもんな。緊迫感が無くなると不協和音だけで物語を保たせようとしたのが見え透いてるわ。もっとすっきりした内容の方が良かったんではないかと思う。全体バランスを取ろう取ろうとするあまりにどんどん不格好になっていくようなそんな印象がある。良い物沢山持ってるだけにすごく惜しい、勿体ない。
ただ、あの失態は主人公のクライマーズ・ハイが解けた瞬間だったのかもしれません。「全世界」を相手とした抜き記事を前にして最後の最後でやめてしまったのは恐怖が全てを駆逐したからなんじゃないかなぁ。それならば未来の方のラストはそこから手がさしのべられ、決して一人ではないことを自覚してクライマーズ・ハイを十七年かけて克服する話なんでしょうか?それもまた微妙な話です・・・。
あと初っぱなの望月亮太のネタは別に入れなくてもよかったんじゃないの?てか、これ重要なのかな。序盤でネタは出されて終盤で唐突に復活とか伏線にしたら弱すぎるし、明らかに一発ネタでしかない。「命には惜しまれる物とそうでない物がある」という事を書きたいのかもしれないけど、脇道にそれてワンエピソードに堕してるから正直インパクト不足。それならばすっぱり切っちゃった方が良かったと思う。
でも記者病のくだりとかは興味深いね。こういうマスコミに携わってない人間は知らないネタなんかは結構佳い。
あとは登山ネタかな。作中で安西耿太郎は「降りるために登る」と主人公の悠木に登山について語っています。すなわち山頂に登頂して生を噛みしめる為に登る。登りは苦難、下りは魔が住む。とよくいいますし・・・。と始めは思っていたのだけど、大きく外しました。終盤に答えがあるんで捜してみて下さい。これでようやく現代と日航機墜落事件の過去が繋がります。
しかしまぁ、親子の断絶やらその再生やらに関してはよくできた創作だなぁという感覚で心酔までは出来ませんでしたね。今回も初っぱなで引き込まれ、終盤にかけて段々どうでも良くなってくる内容には平井和正を想起させますね。結局まとめを書かせると嘘っぽくなってしまう、そんな作家なんでしょう。たった二作読んだだけですが、程度の差はあれそういう印象は拭いがたいです。
でもポイントポイントの鬱屈が中々いいので好きだなぁ。鬱屈が完全解放される場面が最後に据えられていればなおよかったんだが。
80点

参考リンク

クライマーズ・ハイ
クライマーズ・ハイ
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横山 秀夫
文藝春秋 (2003/08/21)
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引用

御巣鷹山にて=佐山記者】
若い自衛官は仁王立ちしていた。
両手でしっかりと、小さな女の子を抱きかかえていた。赤い、トンボの髪飾り。青い水玉のワンピース。小麦色の、細い右手が、だらりと垂れ下がっていた。
自衛官は天を仰いだ。
空はあんなに青いというのに。
雲はぽっかり浮かんでいるというのに。
鳥は囀り、風は悠々と尾根を渡っていくというのに。
自衛官は地獄に目を落とした。
そのどこかにあるはずの、女の子の左手を探してあげねばならなかった━━。

横山秀夫著『クライマーズ・ハイ』(P.91L7〜)より

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半落ち