奥田英朗 ウランバーナの森

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あらすじ

本業は歌手のジョンは世界中で有名になりすぎた事に嫌気がさして現在は主夫業にいそしんでいる。世界一有名なバンドのメンバーが軽井沢で妻と息子のために生活しているとはお釈迦様でも思うまい。まぁたまには自称熱狂的ファンに遭遇することはある。
軽井沢では四回目の休暇なのだが、休暇といってもジョンは休業中なので妻のケイコの方の話だ。ケイコの仕事に合わせて世界中を飛び回るのがジョンの唯一やることと云っても佳い。
そんなジョンが軽井沢でショッキングなことに出会った。死んだ母親の声にそっくりな白人女性に出会ったのだ。出会ったと言っても見かけたといった方が佳いくらいなものだったが、その声に「ジョン」と呼ばれた時は心臓が止まりそうになるぐらい圧迫され緊張された心地を味わった。もう母は死んだのだ。それに「ジョン」という名前は英語圏ではありふれている名前でもある。平静を取り戻そうとしたジョンであったが、その女性はなんと後ろ姿まで母親とそっくりだった。再び眩暈のような症状が襲いかかる。パンを買っている途中だったジョンは早々に切り上げてその女性の正面を見てみたい衝動に駆られた。しどろもどろになりながらようやくパンを買い、その白人の親子を捜した。動悸と息切れ、そして何か分からないプレッシャーが体を駆けめぐる体と抱えて、親子をすぐに見つけた。どうしても気になった。後ろ姿だけでは満足できず、正面にまわってみる。ほっとした。母とは似ても似つかなかったからだ。それでも声は実によく似ていた。再び視野がぐにゃりと歪む。軽い貧血だとその親子に言って別れた。
その夜は悪夢にうなされることになった。若い時代にドイツで起した傷害事件だった。相手は英国の船乗りで、いつも気晴らしにやっていた強盗は軽々と成功していたのにもかかわらず、その男は屈強だった。ブラスナックルを嵌めた拳をぶち当てても向かってくるその姿はジョンに恐怖を与え、殴っても殴っても立ち向かってくる。相方が棍棒で後頭部を強打して漸く倒れたが、その男はぴくりとも動かなかった。以来ジョンは悪夢にうなされている。自分は人を殺してしまったのだと。
翌日目が覚めるとどうにも腹の調子が悪い。それでなくても悪夢の影響で睡眠不足でもある。結局ケイコに頼んで英語が通じる医者の所へ予約を取って貰った。アメリカンイングリッシュを話すその医者は軽く問診を行った後、ようやくジョンの求める検査を受諾した。だが、検査の結果は血液の白血球値も、血圧も、レントゲンですら特に問題はなかった。医学上まったくなんの問題もない、そういう報告が返ってきたと言うことだ。でも依然気分は悪いし、腹の不快感は納まらない。医者に頼んで一発すっきりさせて貰おうと抗生物質を点滴で入れて貰った。医者の言うとおり副作用で目がチカチカする。少し睡眠を取ってから帰ったが、今の時期がお盆というものらしいという知識は少しジョンにあった。医者の所に張り紙がしてあったので、恐らく帰省をするのだろう。ということは自分の腹のことはどうするつもりだろうと不安を少し抱えたまま、ジョンは自宅へと戻った。その日は安静にしてすぐに床についた。
翌日、腹の不快感は有る程度納まった。もうほとんど痛みは感じないが、今度は別の問題が出てきた。便秘だった。どんなに息んでも出てくれない。元々所を選ばず快便型だったジョンには青天の霹靂というしかなかった。ジョンは新たな問題の解決を望んだ。

感想

奥田英朗の本これで五冊目ですね。いやはや、小説家としてのデビューは恐らくこれなんだと思うんですが、実ははるか昔に本を出していたことを奥付の著者紹介の所で知ったわけですわ。アマゾンで調べると奥田英朗で引っかかる中に1990年とかの本が紛れていて、てっきり同名他者が書いた本だとばっかり思ってましたよ。『おれに訊くんじゃない―近そうで遠い男と女のハナシ』(1992年)、『B型陳情団』(1990年)と有るらしいですが、もはや当然絶版なわけで、古本屋で見つけたらゲットしておいても間違いはなさそうな感じですな。
さて、今回の本は・・・奥田さんの本としてはあくまで原型って所かなぁ。イン・ザ・プールへ繋がる基点という感じなわけで、突き抜けられてない。ギャグ多めで明らかに諧謔方向に傾いてて、まじめにやるのは半分以下というか、漫画にしたら面白いのかも知れないが、どうにも小説だと面白味も出ない。まぁ、主人公のキャラクターは丸メガネで、リバプール出身で、四人組で、東洋人と結婚していて、名前がジョンで、ポップスターで、人嫌い。もうジョン・レノン以外の何者でもないわけですがw。奥付の前のページに書いてある「※この作品はフィクションであり、実在する人物(あるいは実在した人物)とは一切関係がありません。」ってのがああ必死だなって感じです。実在する人物であるオノ・ヨウコに日和ってヨウコじゃなくてケイコにしたと。ま、ジョンは既に死んでますからねぇ。確かにこのキャラクターの設定は激しくインパクトがある物の、ストーリーはここ最近はやった類の泣かせに持って行く奴の亜流としか考えられず、ユーモア部分だけではどうにも燃料不足の感がある。流石にユーモアで固めたイン・ザ・プールと比較対象にするのがおかしいのかも知れないけど、それにしたって『野球の国』よりもつまらないのは何でだろう。何かに特化できてないこと、それが問題点っぽい。だから中途半端なんだろうなぁ。奥田英朗の熱烈なファンならば読んでも損はないかも知れないけど、それ以外の人は読んでも「ああ、あれのパクリね」みたいな終わり方をしそう。まぁ、映画にもなったあれのパクリも何もこっちの方が先なんだが。
熱くたぎる感情を呼び覚ましてくれるような本でも無いし、ギャグとしては気の抜けたコーラ。並ではあるものの、奥田さんにはなにかもっと面白い物を期待して求めてしまうので期待はずれ。ただ、文体は読みやすいし、深く考える必要もないし、娯楽方向なのは確か。先入観がなければそこそこ面白いだろうとは思う。
65点
蛇足:ジョン・レノンオノ・ヨーコが出してるひたすら相手の名前を連呼するだけのCDって聞いたこと有るけど奴らおかしいよw。

参考リンク

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ネタバレ

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ま、パクリと疑われそうな話って事ですが、当然『黄泉がえり』とかですな。まぁ、この類の死んだ人間が生き返ってくるってのは古い話なので色々あるわけですが。神話の類にも神が生き返るという話はありますな。ただ、普通はいくつかに分類できます。死んだ人間を生き返らせるタイプと霊云々というタイプですな。実体があるか否かって感じで分けるのが楽でしょうかね。生者>死者>生者になる話ってのが前者、生者>死者で対話出来るのが後者でしょうか。ただ、前者は神話とかでは比較的珍しいですな。黄泉路行きの話は日本の場合は這々の体で生き返らそうとした方が逃げて帰ってきますし、ギリシア・ローマの神話では死んでしまったら星にされたり、あの世とこの世を季節ごとに行き来しなきゃいけなかったりという限定がついてまわったりします。偶に死んで生き返る希有な例が医学的記録で遺されてますが、これはまた別でしょうなぁ。そういえばエジプトの太陽神オシリスの例ってのがありましたな。ただ、生き返ると云っても息子のホルスへ転生だし、本体は冥界の王に治まっちゃいましたし微妙っちゃ微妙ですけど。あとホラーの類では生者から死者に変換された形から何らかの事柄が影響して甦るということがあるものの、ゾンビだとかキョンシーだとか悪夢の具現化されたようなタイプが出てきたりしますね。こちらはあくまで肉体があるということが出来ますが、肉体が無いケースは無いケースで出てくることもあります。ただ、こちらの場合は祟るとか自爆霊がどうのという説明がされます。
本作の場合はあくまでお盆という季節に霊界と物質世界が近づき、限定的に霊がこの世にやってくるということになってます。霊なんですが、何故か肉体があるわけです。だから殺してしまったと思っていた船員にボコボコにされたり、昔ひどいことを言ってしまった小母さんに抱きしめて貰ったりと出来るわけです。うーん適当ですねぇw。
ま、人間死んでしまえば業績が残るか、記憶に残るか、そんなもんで今のところ記憶の保存だの冷凍保存による復活だのって手段がないので生き返らせることは不可能なわけです。それ以前にDNAに仕込まれてる自滅因子があるっぽい*1ので、冷凍保存したところでどうなるものか?って疑問はありますがね。死してしまった人を生き返らせたいというのは喪失に耐えられない人々の願望ということなので古今東西いろんな話があるとは思いますが、ここ最近は胸焼けがするぐらいこの手の甦り話が出まくってます。そりゃあいつか人は死ぬわけで、蜻蛉は羽化して一日だったりするわけだけど人間は70年とか80年とか長いわけですな。長い人生の中で例えば愛した者が失われた場合、局所的には悲しみに覆われる事になりますが、長い目で見ると一種の起伏に過ぎないわけです。ま、人生の彩りって奴ですが、例えば本とか映画とか短時間で追体験する場合は、その引き延ばされた感慨が凝縮されるわけですよ。なので、うれしさやら悲しさやら哀れさ等が綯い交ぜになった激しい感情が胸に渦巻くと。ただこれはある種反則に近いなぁとか思うんですよ。大体情愛溢れる人ならもろですからね。「謀ったなシャア!」みたいな。流石に人間二十年三十年と寿命の半分を行っていなくても誰か身内の人間は死ぬだろうし、親しい人間の死も経験すると思いますよ。そしたら後悔やら、憐憫は確実に沸いてきますよね。嫌いな人物だった場合は清々するかも知れないけれど、誰か一人でもそういう所に合致する人物を失った事があるでしょう。そうなるとその人の記憶を想起するだろうし、作品外の事柄に目が向き始めるんですよ。そして願望としての甦りを求めるようになると言うわけですな。読み終わった人は自分もそんな体験をしたいと望んだりすることになって、ああこの本は良い本だという錯覚に捉えられる事になるということです。『黄泉がえり』の作者である梶尾真治はこの死者と会えるという事がストーリー的に金になるということに気がついたので、『黄泉がえり』だけではなくてそれ以外にも似たような話を書いています。死者を冒涜して商売する守銭奴って奴ですな。『この胸いっぱいの愛を』ではドラえもん的タイムトラベルで過去を再び体験する話ですが、明らかに同類項です。ラブロマンスを絡めて泣かせれば商売になりますからねぇ。以上の理由からどうにも梶尾真治は好きになれないので読みません。って明らかに脱線してますな。
もう一つ核心に触れてしまうので感想の方に書きませんでしたが、表題の『ウランバーナの森』のウランバーナという言葉。わたしゃてっきりウランバーナという言葉の音からロシアあたりに有りそうな土地の名前なんだろうなというように考えてましたが、サンスクリット語でウランバーナ=盂蘭盆会なんですな。盂蘭盆会とは平たく言うとお盆のこと。もうこの風習も廃れてきてますなぁ。精々墓参りに行くぐらい。迎え火とか灯籠流しとかやる人は相当少なくなってるはず。ま、核心となっているのはその森の中で死者に出会うというのがお盆だからという説明になっているということですわ。そして彼らが生きていた頃にジョンがやったことの償いをすると。胸のつかえが取れたことでジョンは創作に打ち込めるようになる。そして便秘も自然に解消。万々歳大団円ってか。さらっとしすぎなぁ。
そうそうこの話に登場する死の世界なのですが、随分既成の宗教的方向性からは遠ざかってるなぁといった感じですね。輪廻は無いみたいで、キリスト教的煉獄みたいな。ただ、煉獄の場合は骨ですが、何故か肉体があると。で、悩みはないが考えることも少ない停滞した世界があの世という説明になってました。ま、正直どうでも良いですが。
綺麗にまとめるのに拘ってるような。もっと足掻いてくれた方が読んでる方としては面白かったんじゃないかな。モデルは既に死んでるんだから。

*1:ま、テロメアの事です。ただ、テロメアは現象として知られているので機能を類推されているというだけのことなので確定はしてません。DNAに仕込まれている要素にそれ以外の自滅因子もどうやらあるようですが、寡聞にしてよう知りません。しっかし、テロメアをど忘れしていたので「DNA 減少」とかでググってみたんですが、出てくる出てくるあやしい話が。フコイダンとか癌関係の薬事法に引っかかるんじゃねぇの?ってのが沢山出てきましたよ。現状不死とか研究するより成人の三大病である生活習慣病まわりの癌・動脈硬化あたりを何とかする方が先決ですな。クローン技術も倫理面とかふざけたこと云ってないで早いところ手をつけた方が佳いに決まっているのになぁ。宗教まわりでごちゃごちゃいうんだったらてめえら救えんのとか思いますわ。臓器移植もままならんというのに。救うのに死ぬことを恐れない心の平安とやらはなしでね。思いこみで洗脳するのと変わらんわ