岩井俊二 ウォーレスの人魚

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あらすじ

フレッド・ラッセル・ウォーレス*1という人物がかつて居た。この人物は博物学者で種の起源で知られるダーウィンよりもいち早く自然選択が進化の理論であるとした論文である「変種が元の型から出て無限に離れていく傾向について」という物を発表した。ダーウィンは進化論の論文を出し渋って*2おり、そこへ出し抜かれるように出されたこの論文に度肝を抜かれた。ダーウィンはウォーレスに何も言わずに自身の論文を付け加え、ウォーレスの論文と合わせて連名で発表、翌年『種の起源』を書きかけのまま発表した。ダーウィンが進化論の草分けとして君臨しているが、ウォーレスが気前よく論文を連名にすることを了解してくれたから良かったような物の、そうでなければ彼の名は後世には残らなかっただろう。こうしてウォーレスの名は滅多に聞かなくなってしまった。ウォーレスの名が冠されている物としてのこされたのは「ウォレス線」、月と火星のクレーターぐらいの物だ。
しかし、ウォーレスという人物は博物学者、科学者であるにも関わらずかなり奇矯な人物だったらしい。その彼の残した一冊の本『香港人魚録』*3について話を進めよう。彼は香港で実業家の中国人と見せ物小屋を見回っていたときに偶然にも本物の人魚を見つけてしまう。何とか金を払ってその人魚を買い取ったのだが、人魚は妊娠していた。人魚はやがてメスの人魚を生んだのだがすくすくと成長していくうちにウォーレスの助手をしていた男−中国人実業家の息子なのだが−と恋仲となってしまう。父親の方は暢気なものでそれを結婚させてしまう。この本には式の時の写真が載っている。花嫁衣装の足先からは魚の鰭のような物が覗いている。ウォーレスはそれはそれとして、人魚というものについて博物学者らしい知識欲との葛藤と戦っていた。人魚の母親を調査のために海に帰したとて帰還させる手段がないのだ。そこでウォーレスは人魚の娘の声を使って帰還させることを思いつくのだが、人魚の娘はこの実験に懐疑的で十分な協力をしなかった。そうして人魚は海に放たれた後いずこかへ消え去った。娘の方はその後懐妊したそうであるが詳しいことは書かれていない。

二〇一二年セント・マリア島*4、オーストラリアのケアンズから飛行機で二時間の距離にある風光明媚な島だ。ネイチャーパラダイス誌のライターであるビリーは彼の地へ海豚の取材に向かった。受け入れ先はライアン・ノリス、セント・マリア島で長いこと海豚の生態研究そして言語研究をしている海洋学者だ。飛行機で空港まで着くとビリーの名の入ったボードを掲げて持っている男を発見した。握手を交わした後ん名乗りをしあい、彼の名がゴードン・ペックでライアンの助手だと云うことが分かったが、肝心のライアンが居ない。やがてトイレから出てきた背の低い童顔男が目当ての人物だと云うことが分かった。車で研究所へ向かい分かったのは、この研究所を切り盛りしているのはライアン、ゴードン、ライアンの娘のジェシー、羽陸洋、ジャック・モーガンの五人で有ると云うことだった。そこでビリーは革新的な記事をゆったりとしたペースで書くはずだった。だが偶然にもジェシーと海豚のために海にでている最中に人魚と遭遇することになる。

感想

人魚について色々な面から詐術を弄して読者を翻弄する、フィクションの世界ではよくあることですが、SF的な手法である真実と偽りを同居させるという事に成功している珍しい話ですね。人魚の話というとセイレーンだったり、アンデルセンの人魚姫だったり、現実的な話が残っていないなか、「ホモ・アクエリアス」とか「なぎさ猿人」とかの仮説から話を膨らませる一種の冒険小説としては非常に良くできています。特に始めはうさんくさい話から始めることで、理解に至る迄の道筋がヒップで楽しい読み物になっています。読み進むによってなぜこの様な表紙にしたのか?という疑問も解けると思います。
個人的には人魚物というと『太陽と月の獣』を追想しましたが、完全なる別の生物として描くのではなく、本書のように人間と同種の系譜から派生したもう一つの人間像という方向性に魅了されましたね。ただ、ウルフガイシリーズのように超人的な内容も含んでいるので、人によってはもっとそっちを書き記して欲しい人も居るかと思いますが、ハードSFとして読んだ方が楽しめるんじゃないかなと思います。
著者の岩井俊二は本業が映画監督だったりするので、物書きとしてどうなのか?ってことはかなり疑問だったんですが、こんなに優れたSFを書ける人物がまだ居たという事実を突きつけられた以上認めないわけにはいかないと思います。まぁ、ただ、彼ただひとりの力による物ではないようなので、全面的に良いとは云いかねますが。SFジャンルはやはり一種の専門家の仕事ですしね。その間隙を縫って記されたこの本はSFとしてだけではなく、時代を超えた恋愛模様を描いていると云っても佳いでしょうね。甘い飴でコーティングされているようなプロットは男性向けと言うより女性向けでしょうが、どちらでも大した問題はないでしょう。
SF好きは読んで損なし。
85点。

参考リンク

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*1:詳しくはここを参照すると良いかもしれない

*2:比較的近代においてもキリスト教的世界では進化というのは神が人を作ったという事実と相反する事柄であり、時代によっては異端として殺されたりされた。ダーウィンにしても友人に「進化論」を発表するのは自殺するようなものだと書き記している。なお、進化に関する論そのものはダーウィン以前にも存在しており、有名になったのは偶然による物と考えた方がいいそうだ

*3:物語の根本に関わる話だが、当然この本は実在しない模様

*4:SantaMariaIslandなら見つけたが、セント・マリア島は地図上では発見できず。SantaMariaIslandはキューバのマッダレーナ諸島にあるらしい