高村薫 神の火

あらすじ

島田浩二は現在科学系専門図書輸入販売の木村商会に勤めている、もう少しで四十路に手が届く歳の男だ。元は原子力関係の研究者だった。彼は父親の死をきっかけに多額の遺産を手にするが、特にその遺産に思うことは無かった。元々母が浮気で作った彼という存在はその目の色で明確に区別されつづけていたからだ。彼の目は碧い。自分の生みの親となった男の特性なのだろう。ただ、彼はその男の姿がどのようなものであったかは知らない。
育ての父との交流も二十年近く父からの一方的な手紙という媒体のみだった。それに特に答える事もしないまま父は亡くなった。一応病院に入院してからは見舞いに訪れる事はあったが、二人の間に言葉は限りなく少なかった。
父は海運会社を持っており、財産分けということになった時に、直接経営に関わろうとしない浩二に会社の関連株を渡すのを親類が良しとしないだろうから、彼はぼんやりと生家の土地や会社所有のクルーザーなどを頭に思い描いた。
家族葬が一段落して、父を荼毘に付した後に意外な人物に会う事になった。会うと言っても偶然を装った形ではあったが。
真っ白なスーツを瀟洒に着こなした老紳士、江口彰彦だ。二年ぶりに会ったが、浩二が最も会いたくない人間だった。彼は島田誠二郎、彼の父の仕事の上での取引相手且つ友人だった。また、島田浩二にスパイの手ほどきをした人物ですらある。足を洗った後に一度たりともまともに面会していない男との再会は浩二の感情を激しく揺さぶった。江口は彼の供養になればと、生前一緒に誠二郎と行くはずだった来年の揚松明を引き合いに出して浩二を誘った。
城屋の雨引神社で毎年八月十四日の夜に行われる揚松明の神事は、舞鶴で行われる祭りで、昨今では観光客まで繰り出す大きなものとなっている。そこで江口は浩二に昔話を語りかける。だが、その姿は手引きするスパイに対するものというよりは、子供の無い江口が父を無くした浩二に対して労わるようなそんな面持ちが有った。
浩二は浩二でかつてのスパイとしての自分を嫌悪していたし、命の危険を伴った恐怖の日々を再び垣間見るには臆病になりすぎていた。二年も経った最近になって漸く人並みの生活を取り戻したと言っていい。足を洗って直後はひたすらに懐疑心を燃やし、絶えず誰かが自分を見張っているような疑心暗鬼がついて回った。殺されるかもしれないという恐怖は常について回ったし、極度に用心深くなった。
そんな彼の近くにそのスパイの日々を仕立てた男が現れるというのは決して善い知らせではない。しかし江口は近況を伝えるような内容の話を少ししただけで踵を返していった。
そこに思いもよらない人物から声が掛かった。日野草介だった。二十年以上前に会ったのが最後となった地元の幼馴染だった。十年程前に父からの手紙に事件で人を殺したとの報があったが、忘れていたし、詳しい事情は知らないので、その事には触れなかった。再会を喜ぶ言葉、そして近況報告の後草介は浩二に良と呼ばれる男を紹介した。明らかにスラブ系の顔を持った男は混血というには日本的香りが抜け落ちていた。どこからどう見ても異邦人の態を持った男は高塚良と紹介された。江口と話をしていた時に浩二は視線を感じていたが、恐らくその源はこの男だったのだろう。草介は浩二に良の仕事の世話ができるようならしてやってくれとの事で紹介したようだった。草介と大阪で会う約束をしようとしたが、草介は住所不定との事で草介側から実家に電話すると言ってきて、別れたのだった。
浩二は再び日本・北朝鮮ソ連アメリカの陰謀の渦へと導かれる羽目になるのだった。だが、まだ浩二は知らない。二度と関わろうとは思わなかった原子力に再び触れる事になるとは・・・。

感想

いやー高村薫の小説は好きだけど、相変わらず長い、ページが減らない、ひたすらに重たいと人によっては後足で砂かけたくなるような本ですなw
いや、貶してるのと違いますよ。それでも私はこの作者の文体好きですし。キャラクターに広がる深淵を感じさせてくれる作家はそう多くないですしね。
この本は元々単行本として発刊された後、全面的に改稿を行い、文庫化、その後に新潮ミステリー倶楽部の一冊として単行本化されました。一応文庫と単行本では内容に違いはないと思いますが、文庫がお勧めですかね。単行本だとページが減らないのが苦痛ですしw
元々の改稿前の本を読んでいないので、どの程度の違いが有るのか分かりませんが、全体を通してみてそれほどまずい点も見当たりませんし、普通に読める本では有るものの、内面描写メインで描かれる昨今の文芸本とはちがい、ハードボイルド系に善く見られる情景描写に紙面が割かれているので、高村薫初見の人にはちょっと辛いかなと思います。とはいえ、内面描写が全くないというわけでもないので、そこまで退屈ではないと思いますが。
最近の文芸本で慣らされてる人の中には情景描写から想像するという脳内変換作業が抜け落ちてる人も居るらしいですが、どうなんでしょう。妄想って行った方が早いんですが、それが出来なくなったら本読んでる意味ってあんまり無いような・・・。
そんな妄想の中ではひたすらにあーこれって腐女子的に寸止め小説なんだろうなぁ、とか思ったわけで。
登場人物はひたすらに男男男。偶に女が出てきますが、後半は全く出てこなくなります。ハードボイルド系に善くある性行為描写もほぼ0。ちょっと珍しい構成ですな。単純化すると男と男の友情話って方向性ですが、色々なしがらみが絡み合ってどんどん話が進んでいきます。多分初めに読み始めた頃と読み終わりの頃は、同じ小説を読んでる気がしなくなっているかと。
全編通して決してピカレスクノワールな感じじゃないんですが、ハードボイルド特有の終末にはそれに通ずるものがあります。
神の火を盗んだというプロメテウスに準えられるこの本の題は読み終わってなるほどと思わせますな。前半部分ではしっくり来ないでしょうが、じっくり読み進めていってくださいな。本は逃げませんから。
75点。

今日の引用

山村勝則曰く「戦後、この国で政治をやってきた者は、みな、何者かの代理ですやろ。天照大御神の代理の代理、GHQの代理、農家や業界の代理、道路が欲しい市町村の代理、ワシントンの代理、モスクワの代理、北京の代理。代理でない日本国の政治家は、ひとりもおらしまへん。敗戦の負債を払う代わりに代理国家になり下がったんやさかい、仕方おまへんな」

自分や江口が生きてきた時代の最後のときが迫っている、と島田は心底納得した。これは過去に引きずられた最後の旅なのだ。

蛇足:高村薫の癖なんでしょうが、「ズック」という言葉が出てきます。ひたすらに古めかしいこの言葉は今の若い世代には通じるのかかなり疑問だったりします。布製の運動靴を意味するこの言葉はもはや死語じゃないかなぁ・・・。

えんえき 0 【演▼繹】

(名)スル
朱熹「中庸章句序」の「更互演繹、作為二此書一」より〕
(1)〔deduction〕諸前提から論理の規則にしたがって必然的に結論を導き出すこと。普通、一般的原理から特殊な原理や事実を導くことをいう。演繹的推理。
帰納
(2)一つの事柄から、他の事柄に意義をおしひろめて述べること。
「他の事象にも―して述べる」

三省堂提供「大辞林 第二版」より

きのう ―なふ 0 【帰納

(名)スル
(1)〔induction〕個々の特殊な事実や命題の集まりからそこに共通する性質や関係を取り出し、一般的な命題や法則を導き出すこと。
⇔演繹(えんえき)
(2)反切によって漢字の音を導き出すこと。

三省堂提供「大辞林 第二版」より

参考リンク

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