柳田邦男 犠牲(サクリファイス) わが息子・脳死の11日

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あらすじ

ノンフィクション作家である柳田邦男の次男洋二郎が死んだ。自殺であった。
彼は中学生の時に同級生との遊びで受けた眼球へのチョークの打撃によって以来精神を病むようになった。所謂抑鬱状態からの衝動的な首吊り自殺を邦男は発見し、病院に運んだが状況は悪くなる一方でついには脳死の判定が下される。

感想

柳田邦男初読み・・・だと思う。柳田は柳田でも國男違いなら確実に読んでるけど、ノンフィクションの場合は著者を気にしないからなぁ。
まぁ、元々書かれた時期が書かれた時期なのでちょっと古臭いのは否めない。文庫判は1999年出版だが、その前のハードカバーは1995年だしね。例えば臓器移植関係で現在は臓器提供意思表示カード(ドナーカード)が世に出る以前の話だし、脳死の枠組みが法によって定義される以前の著作であるのだから仕方がない。てか、本書はあくまで個人的な物だと思う。あくまで柳田家の悲しみを外世界に伝えるための一種の悔恨記であり、また同様の肉親を脳が原因で失う苦しみを持つ人物達への慰労なのかも知れない。加えて風化することを恐れていた故人を書物という形で残すためともとれる内容だ。これは失われた物に対する憐憫の情をつぶさに伝える物という位置付けで佳いと思う。
まぁ、科学的な感情に左右されない対応を心がけていた男が、矜持もなにも肉親の死には瓦解するという悲劇の情景をきちんと書いていることには一定の感慨が涌くけれど、恨み節に近いような洋二郎という故人の過去をつらつらつらつら書かれても正直何の接点もないのだから感慨が涌くわけもない。筆者本人が書いていたが人の死には一人称・二人称・三人称の死が有り、この物語はあくまで誰のみにも起こりうることかも知れないが、あくまでも三人称の死である部分は動かしようがない。人情に欠けるとかいわれてもしょうがないけど、興味がわかないんだよね。悲しくなる以前の問題から「ふーん」とか「へー」とか気の抜けた感想しか持てないんだわ。だから、読むべき人は限られる。「身内の死に打ちのめされている人」だけしかターゲットにされていない。読むのならばそこについて先に知るべきでしょう。
あとがきの後にハードカバーの方のこの本を読んで書かれた読書感想コンクールの入選作が収録されていますが、ああなんてアホらしいとしか思えませんね。こういう読書感想コンクールって基本的に予定調和なんですよ。
「何々がどうであれそれに感動した。私もこうありたい」みたいな事を美辞麗句尽くして書けば確率的に取れる、そういう物です。勿論そこから外れた奇想天外な物もありますが、あくまでそちらは邪道とか奇抜さで選ばれるわけで。感想文なのに小説書いちゃうとか、今までにない解釈をしてのけるとかいう手は古典的だけどありがちですよね。内容を否定して否定して、駄目だとこき下ろした挙げ句それがコンクールに選ばれる事なんて無いんですよ。なんでこんな誰でも思っていても決して口に出さないことを書くかというと、作者が「強制で書かされたりする読書感想文」に感動の思いを出しているからなんですよね。なんて迂闊なと思わざるを得ません。この本は作者の次男への哀悼本であると同時に自己憐憫の本でもあるんですよ。そんなにマゾヒティックな自己に鞭打つ行為を至高なるものに押し上げようとするある意味での自己顕示欲に吐き気がするのです。「どう、こんなに豊かな才能の持ち主が精神を病んだかどで自殺しちゃったんだぜ。こんなに悲しいことはないよなぁ。俺はもう悲しくて悲しくて、少しでもこの才能を知って貰おうと思ってこの文を本にしたんだ」というのはノンフィクション作家であるからこそ仕事に出来ただけでしょう。ま、それは良いにしても、恨んでいないと宣言しながら何度も出てくる「目にチョークが当ったこと」。これある意味で恨み言をその加害者に何度も喉元に突きつける意味で書かれているとしか思えないんですよ。「全部お前のせいだ!」といってます。いや、そう書かれていないのは確かですが、でもそう受け取らざるを得ないです。だらだらだらだら書かれる内容のない憐憫の歌は途中からどうでも良くなってきますね。はいはいワロスワロスってな感覚ですわ。
あと、臓器移植関連の提言とかについては多少自論を展開されてますけれど、そこに関してはこちらはノータッチかな。もう「臓器の移植に関する法律」*1脳死者から臓器の取り出しが出来るようになってるしねぇ。まぁ、西欧キリスト教世界と横並びになる必要性は必ずしも無いという部分は同感。まぁ、臓器移植に関する筆者の持論よりも次男を失って悲しいという内容の方が多くて興味も惹かれなかったからなぁ。だってあくまで臓器移植っていう手段は「社会から阻害された次男が社会に繋がるための方便としての骨髄移植のドナーになれない*2から、苦肉の策として生まれた」突発的な物であって、主眼じゃないんですよ。さもこれが大事だというように書かれているが、繰り言に過ぎないと思う。
ご愁傷様、でも筆者の次男と壊れた家庭には興味ないよ。
追記:「臓器の移植に関する法律」について見直し論についてちょっと。

  1. 人の死の定義があいまい (臓器移植の成否により変わる)。
  2. ドナーが少なく臓器移植の例数が少ない (海外で移植を受ける患者も多い)。
  3. 小児への臓器移植が不可能 (海外で移植。成人患者含めて臓器売買と揶揄される)。 関連学会のアンケート調査 (1993〜98年):小児の心肺移植適応例143例、内77例が死亡、8例が海外で移植、3例が生体部分肺移植。
  4. 当初ドナーカードには眼球 (角膜) の項目がなかった (提供を制限されたくないため)。
  5. 腎移植は心臓死後も可能だが、脳死臓器提供施設以外での施設での心臓死後腎提供が減少。

このあたりが問題かと。現在の脳死後の臓器移植に関する部分に焦点を当てていないため、臓器移植についてはこの本はあまり役に立っていないかと。

参考リンク

犠牲(サクリファイス)―わが息子・脳死の11日
柳田 邦男
文藝春秋 (1999/06)
売り上げランキング: 11,920

*1:これでも法案の正式名称

*2:脳死状態では生命維持を行っても細胞の壊死が始まる