古川日出男 アラビアの夜の種族

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あらすじ

フランス革命の後彗星の如く現れた軍人が居た。名をナポレオン・ボナパルトという。そのものはあらゆる戦で負け知らず、各地を転戦していたが、英国との開戦の前に貿易の道筋の要所であるエジプト侵攻を決意する。
英国はインドとの交易の為の貿易要所としてエジプト経由をとるのが自然であり、泣き所を責められるのは遺憾であるのでフランス海軍を追いエジプトへと向かった。時のいたずらは後から追ったはずの英国軍を先にエジプトに着けてしまったことだ。フランス軍がやってくるという言は当地の権力者には全く理解して貰えず、門前払いを喰わされて退却を余儀なくされる。
結果フランス軍は意気軒昂現れることとなったのだった。
当時のエジプトはオスマン帝国の領地であった。しかし、実権はオスマン帝国が派遣した者ではなく、当地の地方実力者である二十三人のベイにあったのだ。ベイ達は各々を出し抜き我こそは一番の実力者へとなる事へ思いを馳せ、権謀術数の数々で狐狸もびっくりなほど狷介で老成された化かし合いを繰り広げていた。
さて、当地は少々外世界とは変わっていた事を述べねばなるまい。ベイとは本来奴隷なのであった。いや、奴隷という身分にありながら権力者であるというのは異な事であるのだが、その既成概念に縛られた物の見方はここで捨て去っていただきたい。その成り立ちを答うるには紙面の余裕がない故に本書をこそ読むべきである。
翻ってそのベイの中にイスマーイール・ベイが居た。彼は二十三人のベイの中で唯一フランス軍の脅威の片鱗を知り得た人物であった。戦より数ヶ月前ナポレオンの下知によって数々のスパイが当地に暗躍したのだが、それは明確な意味を当のスパイに知らされないまま行われた謎の行為だった。その動きを察したイスマーイール・ベイの奴隷の一人であるアイユーブはスパイの一人を生け捕り、その試みを逆に探ることとした。斯くしてフランス大使館員とイスマーイール・ベイの会見が数度行われることになったのである。両雄はそれぞれの意図がわからぬままに蒟蒻問答を始めたのだった。それによってイスマーイール・ベイは情報を引き出すことに成功したが、結果として見えてきたのは革命を経たフランスの近代的軍隊の脅威であった。未だ東西の文明の衝突を免れているイスマーイール・ベイの頭では黎明はぼやけた輪郭に過ぎなかったが確たる状況判断は可能だったのだ。
そして数ヶ月を経てフランス軍はエジプトへ攻めてきた。ようやくにしてスパイの意味がわかったのだが後の祭りである。エジプトが誇るマルムーク騎士団は近代的軍隊には無力である。他の二十二人の暗愚なベイ達には解らずともイスマーイール・ベイには確たる諒解があった。フランスの猛攻にどのように対するのか、それが問題であったのだ。その問いに答えた者が居た。スパイを生け捕ってフランスとの渡りを付けたアイユーブであった。
アイユーブは災厄の書という物の話をイスマーイール・ベイにし、それをフランス軍の全能者へ贈りものとして渡し、腑抜けにしてしまう作戦を吹き込んだ。災厄の書は内容があまりにドラマチックで読む者を虜にし、破滅に追いやる本であるらしかった。当地は未だ活版印刷が無かったが為に本一冊一冊が稀覯本であった。その中でも随一の装丁と煌びやかな装飾を施された災厄の書。今までその行方が解らなかった禁断の書をアイユーブは発見したのだという。それをいくつかに裂き、そのままでは読めぬ形に変えフランス語に翻訳し相対する者に捧げる方策を今実行に移している途上なのだという。
アイユーブはそれを実行する。イスマーイール・ベイが思っていることとは実際には違う事を。イスマーイール・ベイを欺く業を。伝承される語り部の言葉を、あたかも災厄の書があったかのような言葉を、これから一つの本にまとめるのだ。その場を占めるのはアイユーブ、そしてカイロでも随一の能書家とその書家のヌビア人奴隷、最後に語り部「夜(ライラ)」とも「夜のズームルッド(エメラルド)」呼ばれる女性。斯くして物語は語られる。秘められた、今やたった一人になってしまった語り部は三人の男について語り始める。
一人目は妖術師。アーダムという王の末子に生まれたが面相が醜く、武術に秀でない悲しき男。長じて妖術を駆使して万悪を成す千年前の物語の始まり。
二人目はアルビノ。黒人の間に生まれたが、アルビノであることで白人集落に捨てられることとなった生まれ。そこで付けられた名がファラー。魔術を操ることのみに苦心した漂泊の旅人。
三人目は盗賊。王族の直系でありながら叔父が父から王位を簒奪し、母親が殺されたショックで生まれ、職業犯罪者の夫婦に売られたサフィアーン。清廉潔白で情愛に深いこの若者は十六の歳の誕生日に己の出自を知る。
物語は綴られる。歴史という名の書物の上に。

感想

古川日出男四作目。第55回日本推理作家協会賞(長編および連作短編集部門)と、第23回日本SF大賞のダブル受賞をしたのは史上初らしいですね。しっかし日本SF大賞は節操ないなぁ。これどう考えてもSFとは言えないと思うんだが。
はぁ・・・やっと読み終えることが出来たよ。実に実に疲れた。心地よい疲れでもあるんだけどね。前半と後半で分けると前半がきつかった。何しろ読んでると眠たくなってくるんだからw。通常の本の5倍から6倍は読む時間と集中力を要したね。ページが減らなくていつになったら読み終わるのかすごくイライラしたものの400ページ以降はあっという間でしたわ。睡魔との戦いという本はここ最近無かったなぁ。相変わらず活字の圧力と物量が凄まじい一冊でした。流石原稿用紙2000枚弱は伊達じゃない。
とある年代記と言うことでしたが、年代記というよりはサーガに近いかなこれは。なお先に断っておきますが、本作は作者が『沈黙(rookow)』でやったとおり作話ですから。『The Arabian Nightbreeds』という作者不詳の英訳という所も含めて創作なので作者にまるっと騙されないように。私もググるまではてっきりそうだと思ってましたけど、そんなに世界各地で訳されているならば、訳書の殿堂たる日本で訳されていないわけがないんですよ、ええ。日本語は使用者は少ないにもかかわらず、様々な言語を背景に持つ書物、論文の翻訳に事欠かないんですな。故に本当にその原本が存在して居るならば、ここまで放置は喰らわないのです。ということで実に複層的な物語です。読者としての我々は『災厄の書』の実体『アラビアの夜の種族』という本を読み、その本を『The Arabian Nightbreeds』という英訳の本から翻訳したという作者の言葉を呑み、その中ではナポレオンとエジプトの抗争が、更には物語られる三人の男の物語と実に四重のメタフィクションとなっているわけです。
とはいえ、作話だからつまらない、そういうわけでは決してありません。というか、そんな論理は小説読みなら有り得ないわけですが。虚構、虚言を弄されてもいいじゃないか、騙されたいという方にこそ読まれるべき本ではありますよね。
まぁ、下敷きにしたのは千夜一夜物語でしょう。残虐な王シャフリヤールの花嫁殺しを諫める為に千夜に渡って物語った大臣の娘シャハラザードの物語がその元であることは想像に難くないです。アラビアンナイト的な日本人には比較的身近ではない世界を近く感じさせる技量にはほとほと感服しますが、その代わり内容の文章的華美さは分量の増大を生み、少しばかり敷居が高く感じるほどです。ただ、華美さが理想的な部分のみを書き出した乖離した人物像を形作る事はなかったので、嘘くささが無くてよいですね。その代わり、卑近さを産み出そうと使われる下品な言葉は作者の感性なのか、ちょっと時代がかってます。直接的に使うにしてももうちょっと形式を踏むとか、乱用を避けるとかあると思うんですけど、『ベルカ、吠えないのか?』でも似たような性器名称連呼とかあったのでこれは作者の特質なんでしょうね。かなりアレですが、作者にエロゲをやって貰って、そっち方面のネタのコードを覚えて貰いたいと思ったり思わなかったり。『ベルカ、吠えないのか?』読めばわかると思うんですけど、下用語とか罵倒とか下手なんですよね・・・。
ま、それは兎も角として、漫画化をして欲しい本だなぁと思いましたよ。そうですねぇ・・・荒木飛呂彦藤田和日郎か。そのどちらかがやれば余さず物語ってくれそうですが、両方とも無理でしょうねぇ・・・自分で物語をひねり出すことの出来る数少ない漫画家ですから。
ゲーム的要素の強い本との意見を見かけましたが、確かにそれは然り。でもどっちかっていうとゲームより格闘漫画的要素の方が近いと思うわけですよ。強くなるための方策とかが丸々ね。喰らうことでその者の特質を得るとかはシャーマニズムっぽいですけど、実にいかにもじゃあありませんか。
なお、元々ゲーム要素については著者がウィザードリーのノベライズの『砂の王』という未完の作品に手を付けていた事が下敷きになったようですね(ここ参照)。ウィザードリー的な洞窟探索はここから来ているわけです。
いやはや、夜を徹して読んでしまいました。これから寝るわけにもいかないわけですが・・・。ただ、超絶に面白いという本ではありませんでしたね。文章をたゆたうのが愉しい本でしたけど、感情的揺さぶりがもっとあった方が楽しめたろうなぁと思われます。でもこういった小説作法も悪くないかも。ネタがファンタジックなエジプトと現実世界*1のカイロと知的好奇心をそそる物でしたからよかったですけど、ネタへの興味如何によっては苦痛惨憺たる小説へと変貌を遂げそうな気もします。エジプトというとどうしてもエジプト文明の事ばかりが頭にあって歴史の表舞台からは遠いんですよね。フランス遠征にしたって、専門家でもなんでもないんで当地に三年フランス軍は逗留したって事と、スフィンクスを砲撃した事ぐらいしか知らないわけで。社会風土なんてもってのほかですよ。世界史の授業であってもまず知ることはないでしょう。そうした空白の地図を埋めるのには適当か、それを確かめてください。
75点
やっぱり長すぎるのが難かなw。

参考リンク

アラビアの夜の種族
アラビアの夜の種族
posted with amazlet on 06.02.10
古川 日出男
角川書店 (2001/12)
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*1:正確には創作だが