東野圭吾 片想い

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あらすじ

大学時代のアメフト部の同窓会に出席した西脇哲朗はかつてのチームメイト須貝と共に帰えることにした。その途中で今日は欠席したかつてのマネージャーの日浦美月を見かける。須貝が手を振って合図しながら駆け寄るとまごう事なき本人のようだった。だが、長年会っていないため随分と面変わりしており少し痩せたように感じた。話しかけると彼女はボールペンとノートを取り出し
「どこかで話を」
と書き出した。哲朗と須貝は美月に事情の説明を求めたが詳しくは語ろうとしてくれない。結局哲朗のマンションに行くことにした。
哲朗は同じくマネージャをしていた理沙子と結婚し同居していた。哲朗はスポーツライターを、理沙子はカメラマンを志し頑張ってきたが、名が売れるにつれて仕事にかまけ、二人の仲はだんだんと冷えていった。今日は仕事が少し遅くなるとかでまだ帰宅してないはずだ。
着いてみると案の定まだ理沙子は帰っていなかった。二人をリビングに通すと美月はまた筆談を始めた。
「洗面所は?」
哲朗は美月に洗面所の場所を教えてコーヒーを作っていると美月がリビングに現れた・・・が、まるで別人だった。髪を短くした黒いシャツにジーンズ姿の男は顔の部分部分をみると確かに美月のはずだった。
「久しぶりだな、QB(クウォーターバック)」
美月の顔をした男はそういった。声も甲高くなく、自然な男の物のようだった。
事情を詳しく聞いてみると彼は確かに美月だった。だが、美月は自身が男だと主張するのだった。トランスセクシャルというものらしい。大学時代まで女として生活していたのだが、どうにも自分の肉体に違和感を感じずには居れず、家を飛び出したらしい。彼(彼女)は結婚して小さな息子がいたのだが息子にも何も言わずに飛び出してきたのだそうだ。自分の母親がこんな人間だなんて教えたくないのだそうだ。
そんな話をしていると理沙子が帰宅してきた。美月が来ていることを話し、「あいつは前のあいつではない」と告げた。
美佐子は多少はびっくりしたみたいだったが、それほど慌てることもなかった。
美佐子をいれて四人で話している最中、美月は一つの爆弾発言をする。
人を殺したと。
彼は失踪してからバーでバーテンとして働いていたらしい。自分の性別が女だが中身は男であるということを少数の人間にだけ教えて働いていたのだそうだ。ほとんどの人間は美月が男だと思っていたという。美月はバーの女の子がストーカーに追いかけ回されていることを知っていたので、度々自宅への帰り道をガードするようになっていたという。美月は帰り道でそのストーカーの車を見かけ、送り届けた後にその車に乗り込んでストーカーをやめるように迫った。するとストーカーが狭い車の中で暴れ出しもみ合いになった挙げ句に首を絞めて美月が殺してしまったのだという。その後車を見つからない場所に移動したらしい。事件は昨日の深夜で昨日はほとんど寝てないという。美月は自首しようか悩んでいたのだが、ホルモン注射で男性的な体つきを維持してきただけに、時間が経つにつれて体つきが女性的になるであろう事に強烈な嫌悪を感じているようだった。刑務所にはいるならばホルモン注射など出来るわけがない。四人の話し合いの結果、理沙子は自分が責任を持つと言って美月をかくまうことにした。美月が持っていたストーカーの持ち物−−−当然犯行を裏付ける証拠−−−を隠すことにして自首を出来無くさせた。

感想

こりもせず東野圭吾の本を読む。これで12冊目かな。解説によると作者が『秘密』を書いた後に「取り替えっこ」という概念を引きずったことによって生まれた作品らしい。『秘密』では娘とその母親の意識が入れ替わり、娘の体に母親の意識という外見と中身の入れ違いを描いたのに対し、本作『片想い』では男女の性別の入れ違いを描いているとのこと。まぁ確かにその通りですな。ただ、その引きずっているという『秘密』に比べてこちらの方が内容が濃い。また、非現実的である精神と肉体の入れ替わりという現象に比べて、本書はどこかで現実に起きているのかも知れないという可能性を示唆する内容になっています。諸悪の根源は戸籍謄本の性別を後から書き換えることが出来ないと言うことでしょうかね。まぁでもこれは仕方のない事だとも言えます。染色体の違いはいかんともしがたいわけですし、公式の記録としては生物学的な方面で記載するしかないでしょうな。肉体的にアンドロギヌス(真性半陽陰)であるならば特別項目でも作らない限り、どちらか一方にするしかないでしょう。最近は社会的に開け始めたとは言えまだまだ黎明期ですから当事者の方々には難しいところですな。
本書の中で全く触れてこなかったことですが、染色体にYが含まれるか否かだけではなくて、脳の構造が男性脳・女性脳と違うという報告があります。視床下部の構造が違うらしいですが、ホルモンバランスに異常があると肉体の性別とは別の面で精神が左右されるみたいですね。実際の所はどうかというと専門家じゃないんで分かりかねますが。この話が盛り込まれなかった理由は読むと分かります。おそらく精神が男性的と女性的の区別が付きにくいあやふやな状態を醸し出したかったからでしょう。あんまり簡単に区別が付いてしまうと話を膨らませることができませんしね。例え出来たとしても否定条件になるわけで好ましく無いとも言えます。
それにしてもこの本は複雑ですねぇ。同性愛って言う所に落ち着くんじゃなくて肉体と精神が違うという所に目をつけるあたりが秀逸なんですが、料理の仕方がちょっとゴテゴテしてしまっているので肝心のテーマは事件の添え物になってる印象が拭えません。そういう意味ではトランセクシャル・トランスジェンダーの方にとって最良の本とは言えないでしょう。特に結末付近に関してはヘテロセクシャルにとって都合が良く進む点はいかんともしがたいわけで、現実から逃避する目的の本で読むという行為をしているトランスセクシャルには楽しめないでしょうね。まぁ、ヘテロの人にとってのトランスセクシャルという存在を知って貰うための一つの方法と割り切るのが佳いのではないでしょうか。とはいえ、最近ではカムアウトする人もそれなりにいるので、ジェンダー系の話を書いても二番煎じになる所ですが、この本が出たのはそのちょっと前。時期的に非常に良かったと言えます。
ちょっと整理しておきますが

  • トランスジェンダー:肉体の性別に違和感を持つ人
  • トランスセクシャル:肉体の性別、特に性器に違和感を持ち性転換したい人
  • ヘテロ異性愛者を指す
  • インターセックス:両性具有だったり、染色体でどちらかに割り振れない性別のこと
  • 性同一性障害:肉体と精神の性別が異なる場合に『病気』と判定される事
  • 性再判定手術:性転換手術とされるもの。性器を弄るので問題もある
  • 母体保護法(旧優生保護法):性再判定手術が長年出来なかった諸悪の根源。性同一性障害が一種の病気であるという事が認められるようになり、障碍は無くなったと言える。何が問題だったかというと28条「何人も、この法律の規定による場合の外、故なく、生殖を不能にすることを目的として手術又はレントゲン照射を行つてはならない。」。性再判定手術は肉体と精神での性差のギャップを是正するという理由があるので日本でも手術が出来るようになった。かつてはこの条項が問題になって日本では手術することが出来ず海外に出て手術する必要があった。

こんな感じらしいです。一応ここら辺を頭に入れておくと更に楽しめるかも知れません。作中にはほとんどそれぞれの説明が登場しませんから。
ちょっと一息ついてから詳細に。

東野圭吾独特の毒がこの本の中では目立ちにくい位置にあります。徹頭徹尾貫かれるのではなく、段階的に上げて行かれてるわけですな。『秘密』と対比されますが、似ていると言われれば似ているもののかなり違いが目立ちます。最後の最後で大ドンデン返しで鬱の入るあの話はショッキングではある物のただそれだけです。それだけのためにジェネレーションギャップ溢れる日常を描写する事に腐心するという労力を無視した努力は認める物の、一アイデア物特有の物語の希薄さはどうしても目立ちます。
それに引き替えこの話において重層的で割り切れ無さ満点でとても複雑なんですな。三十路過ぎというしがらみ多き年代でそれぞれの岐路に立っているわけです。それは表題の『片想い』にも現れています。作中なんどもその片想いという概念に出くわすと思われます。それぞれの思惑は善意であることを忘れないで下さいな。そしてラストで悶絶してください。このラストを読んで、やべぇやっぱり毒があるじゃねぇかYO!!とか思ったわけです。ある意味何かを抱えたくない人は最初の百ページぐらいとラストの部分だけ読んでも佳いかも。やっぱマゾなんじゃねぇの作者w。ラストがマジ有り得ないんだけど。それでもやっぱり面白いんだよねぇ。そこら辺は不思議。あ、この本は多分女性向きじゃないです。男性じゃないと理不尽に感じるでしょうから読まない方が無難。恋愛物ではある物の、男性サイドの話ですから。決して男の世界な話ではない物の大した違いはないかと。
80点
一つ苦言をていするならば、エピローグぐらいもっと長くしっかりした物を書いてくれよって事かな。二日連続して面白い小説だったのは収穫。

引用

「ふつうの一枚の紙ならば、裏はどこまでいっても裏だし、表は永久に表です。両者が出会うことはない。でもメビウスの帯ならば、表だと思って進んでいったら、いつの間にか裏に回っているということになる。つまり両者は繋がっているんです。この世のすべての人は、このメビウスの帯の上にいる。完全な男はいないし、完全な女もいない。またそれぞれの人が持つメビウスの帯は一本じゃない。有る部分は男性的だけど、別の部分は女性的というのがふつうの人間なんです。あなたの中にだって、女性的な部分がいくつもあるはずです。トランスジェンダーといっても一様じゃない。トランスセクシャルといっても、いろいろいます。この世に同じ人間などいないんです。」

東野圭吾『片想い』より

参考リンク

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雑感

以下ネタバレ&改行多し。見たくない人は上にある最新の日記をクリック。
書いてる人間の備忘録的な内容なので読んでも決して面白くはないかと。





































































































ここら辺で佳いかな。
ま、あれです。ラストについての判断についてちょっと気になったので書き記しておきます。
結果として主人公の哲朗は妻と別れるわけですな。まぁ、これを私は認めたくなかった、とそういうわけです。なので読み終わった時にこのラストは幾通りもの読み方が出来る、と自分をごまかしてたんですな。
しかし兆しはもう十分すぎるほど有ったんですわ。でもなんとしてもそれは拒否したかったわけです。無駄なあがきですがね。
こういう本を読むたび思うのは「結婚は墓場」って事ですな。離婚をするとなれば男性側は女性に比べて不利です。親権は女性にほとんど奪われ、慰謝料として金を払う必要がある。まったくなんのために結婚したのだかわかりませんよ。特定個人を好きになるというのは分かるんですが、結婚という踏み絵を経て自ら死地に赴く理性的な根拠がないなぁと思う今日この頃。ならば一生独身でもいいような。それに稼いだ金を他人に費やして住宅ローンや学費で無為に消えていくのも正直割り切れない。老後の保障のためみたいな先行投資にしてもあまり理性的とは思えませんねぇ。人は一人で生まれてきて一人で死んでいくんですよ。下手なしがらみのために血肉を削るのは正直あほらしいですな。それに子供が生まれたとして、障碍を持っていない可能性というのは決してゼロではないということ。ダウン症に染色体異常に自閉症、肉体の欠損もあり得るし、先天性のものだけではなく後天的な物も入れるとかなり現実味を帯びてくるのではないかな。そのリスクを犯す価値観が一般的だけに否定的な態度をとる私のスタンスは人によって異常と取られかねないがまぁしょうがない。

もう一度結末を読み返してみた。やはり別れてはいるものの円満な別れだったのだろうか?どうにも想像をかき立てる終わり方だ。ラストが何通りかあると考えたのは旅だった彼女が「QB」と言ったことが大きい。そこがどうにも美月を連想させる。美月はグリーンランドへ行ったのでアフリカへ行った理沙子とはダブらない。だが、中尾になった美月と理沙子がくっついた様にもおもえ・・・ないか普通は。私のトラウマとなっている体験がどうにもくすぐられる。かつて付き合っていた彼女が両刀でレズの娘に寝取られたとでも言ったらいいだろうか。「嫌いじゃないけど、こっちの方がしっくりくる」そう言われたのが五年経った今でもトラウマですわ。おまけに彼女は学校を辞めるしね。別れた直後から二年ほど魂の抜け殻だったわけで。友人曰く人格すら変わったとか。
昔語りはさておいて、まぁトランスセクシャルからレズへと脳内変換されて、レズにトラウマが有るのでそれを刺激されて混乱したとまぁそういうことみたいですな(分析的)。

自分が攻殻機動隊的なものに惹かれるのは理由がある。体にメスを入れるとか穴を入れるとか入れ墨を入れることは倫理的に好ましく思われていないのだが、人間は表面的な方向だけで物を判断しがちだ。つまり人と人が出会ったらまずその人の外見で判断する。私は中身で判断する方だと思うが見た目で判断しないとは言い切れない。だが、これらはあくまで天賦の物であって作為的に手を入れるのには構造的な問題が付きまとう。例えば顔は顎を削ったり頬骨を削ったり、鼻筋を通すために何かを埋め込んだりと有る程度のことならば出来る。だが完全に別人になるのは難しい。男性の体を持った人間が女性の体を持つのは不可能なのだ。ならば入れ物を別にしてしまえば佳いではないかというのが持論だ。遺伝子工学が発達すればDNA構造が同じだが染色体を弄った性別の違う体を得ることも不可能ではないだろう。問題はそのクローンが現在の法体制ではまず作れないこと。それにクローンは実年齢と同じように年を食っていく。20年かけて入れ替わったりするのは実に面倒である。
そういえば映画に『フェイスオフ』というジョン・トラボルタニコラス・ケイジの出演するものがあったが、あれはどうやら現実の物になるそうだ。死人の顔を生きている人間に移植する顔移植とでも言えばいいのだろうか。交通事故などで顔の構造が壊れてしまった人などに施されるらしいのだが、実施予定とのこと。だからどうしたと言われればそれまでだ。
クローンがダメとなれば、その代替として機械的な擬体もありではないだろうか。自分の性と決別するということではメスを体に入れるのと大して変わらないと思う。特に男性が女性化しようと思った場合は肉体の一部を弄るだけでは埋まらない差異は確実にある。選択肢は多ければ多いほどよいと私は考える。
美醜の基準は現在は平均値だ。整った顔というのが好まれるが、平均的な顔ばかりになれば『個性』という言葉が生きてくるだろう。その時まで私が生きているかどうかはわからないが・・・。