アガサ・クリスティ オリエント急行の殺人
あらすじ
シリアで事件を解決したエルキュール・ポアロはタウルス急行でハイダパシャ*1のトカトリオン・ホテルで数日滞在する予定だった。しかし、ホテルについて電報を開けてみると英国へ至急帰れとのこと。ポアロは数日の休暇を諦めてフロント係にロンドンまでの切符とシンプロン・オリエント急行の一等寝台車のチケットを取るように命じて少し食事をすることにした。
そこに折良く登場したのは国際寝台車会社*2の重役であるムシュー・ブーク*3であった。二人は少し話をし、どうやら同じ列車に乗って行くのだろうという事が分かったので、ブークは所用をすますために離れていった。その後口髭にスープが付かないように飲むという難事業を切り上げてからポアロはブークの居るサロンの方に向かった。そこで談笑していると恐縮した格好のフロント係がやってきて列車の一等寝台がすべて埋まっているとの旨を伝えてきた。ムシュー・ブークは重役用にいつも一室開けてあるはずで有ることをポアロに告げて、二人ともオリエント急行に向かうことにした。
ムシュー・ブークを最敬礼で迎えた寝台車の車掌はいつも客を入れない16号室が埋まっていると言うことを告げた。祭日に当っているわけでもないのに普段埋まらない寝台車がほぼ満員であることに混乱したムシュー・ブークであったが、二等寝台にもうそろそろ発車時刻だというのに来ていない客が居るということで、そこにポアロが泊まることになった。
その日オリエント急行の寝台車に集まったのは十数名。
タウルス急行で同乗した英国軍人のアーバスノット大佐と家庭教師をしているというメアリ・デブナム。この二人はタウルス急行からオリエント急行になんとしてでも乗らなければならない理由があるようだった。また、二人は親しい仲のようだったが、極力他人を装うよそよそしさを持っていた。
ラチェットと名乗る金持ちとその秘書のヘクター・マックイーンはトカトリオン・ホテルで見かけていた。二人ともアメリカ人のようだ。ラチェットは目つきが鋭くどこか獣を思わせるような大柄な男だった。なんでも何者かに狙われているとのことで、ポアロにその警護を頼んだのだが、ポアロは「顔が気に入らない」との理由で断る。
発車してから二晩後にラチェットは死体となって発見される。十二箇所から十四箇所もの刺し傷があるというのに被害者はほとんど抵抗を見せたとは言えないほどきれいなまま見つかった。刺し傷はおそらく右利きではあるものの、深い物、浅い物、死んでから点けられた物など多種多様であった。死亡推定時刻は夜中の十二時から二時の間。どうやら被害者は睡眠薬を飲んでいたようだ。だが、枕のしたにあったのは明らかに護身用のピストルだった。鎖をかけるフックが枕元にあるというのに被害者のパジャマのポケットに押し込まれたまま衝撃で凹んだ懐中時計は一時十五分で止まっていた。何かがおかしい。部屋を捜索するとHのイニシャルの入った上流階級の人物が持つのが相応しいハンカチ、そしてパイプ用クリーナーが落ちていた。ミスリードの為の偽装だろうか?
ポアロは現場に残された焼けこげた紙切れからちょっとした方法で手に入れた情報は「アームストロング事件」という物だった。記憶によればアメリカで起きた児童誘拐の脅迫殺人事件だ。だとするとこのラチェット氏は「アームストロング事件」の主犯だったようだ。おそらく、ラチェット氏を殺した犯人は「アームストロング事件」の被害者の係累だろう。今オリエント急行に乗っている国籍身分貧富の異なる十三人の誰かが犯行を行ったに違いない。雪が深すぎて立ち往生してしまった列車はまさに密室状態だ。
錯綜するアリバイと証言、緻密な灰色の脳細胞はどんな答えを出すのか?
感想
アガサ・クリスティ二冊目です。前回は単体の話でしたが、今回は名探偵と名高いエルキュール・ポアロが主役のシリーズ物の一編です。とはいえ、今NHKでアニメがやってたり、昔ポアロのドラマがやってたりとしてましたが、一切見たことがなかったのでどんな話なのかは全く知りませんでした。とはいえ、ミステリーの名探偵物というのはかなり王道なので多分大丈夫だろうと勝手に思ってました。で、実際どうだったのか?って事ですが、期待は裏切られませんでしたな。アガサ・クリスティの略歴をちょっと見たことによってわかったんですが、クリスティがミステリーを書くきっかけとなったのはホームズシリーズに耽溺していた経験から書いてみることにしたという事みたいで、処女作(スタイルズ荘の怪事件)その物もポアロが出てくる話だったようですね。
今回初めてポアロを読んで気づいたのは、エルキュール・ポアロそのものはシャーロック・ホームズとジョン・H・ワトソンのハイブリットキャラクターだと言うことでしょうか。ホームズシリーズでエキセントリック且つ明晰な探偵を担当しているホームズと読者のためのミスリードと笑いを担当するDr.ワトソン。適度な割合で混合されて出来上がったのが灰色の脳細胞ことエルキュール・ポアロだと感じました。
前回読んだ『そして誰もいなくなった』ではほとんど語られなかったキャラクターの個性、そして背景から飛び出てくる様々な台詞、読者を飽きさせることのない煌びやかな事件背景、そしてミステリーとして必要な殺人トリック。ほとんど穴がないですなぁ。こりゃ確かに後世において語られるクリスティの代表作の一つと数えられてもおかしくはないです。いや、まだ全然クリスティの本読んでませんがねw。
にしても一番驚いたのはアガサ・クリスティが1976年まで存命だったということですかねぇ。享年86とはまた随分長生きしたもんです。なんかクリスティというと戦前なイメージなのでごく最近まで生きていたということがちょっと信じられませんね。でも文章はかなり華麗で時代を感じさせませんが。
今回読んだのは早川のクリスティ文庫に収録されている物でしたが、『オリエント急行の殺人(もしくはオリエント急行殺人事件)』は様々な出版社から出ているようです。ポプラ社、偕成社、講談社、新潮社、創元社、角川書店、岩崎書店、東京創元社、洋販出版ということで合計十社からでてるわけですな。著作権の方が切れてるのかなんだか知りませんが、訳者で選ぶと言うことならば今回読んだ物には大きな瑕疵は無いようなので、おそらく問題なかったんでしょうな。ただ、これだけでていると、読み比べをした方がいいのかも知れません。訳者によっては随分文章や雰囲気が変わる物ですから。
瑕疵がないと言っておきながらあれなんですが、訳者にちょっと苦言。1930年代のロンドンの店の名前を絡められても読者には分かりませんから。早川の場合はほとんど訳註が入らないんだけど、適所適所に入れた方がいいと思う。これだけ古いとなおさらね。作中にコンスタンチノーブルって地名も入ってるけど、現イスタンブールの事だって分かる人はどれくらい居るもんなんだろ。まぁ、出来ればオリエント急行が辿る地図を冒頭に入れておいて欲しかったな。それだと随分と地図を調べる手間がかからなかったはずだしね。
あーそうだ、読む人に一つ忠告。この本は本格とされてるけど、厳密には叙述トリックも含まれているので、自分で解こうとすると多分失敗するかと。ま、本格として読まないで読み物として読んで、ゴージャスな客車旅行を満喫するのも手ですな。こういう時刻表トリックを使わない列車内サスペンスはかなり面白い。まぁ、時代が時代だからってのもあるでしょうがね。古き良きって言う時代ですわ。にしてもイギリス人とフランス人とアメリカ人とドイツ人とイタリア人に対する作者の考えはめっちゃステレオタイプで笑える。こういう楽しみも随所に残されているので未読の方は読んでも佳いと思う。
ただ、すっきりした終わり方を望んでる人にはちょっと結末に納得がいかないかも。でも私はこの二つの解答に人間くさい割り切れ無さを感じるので好きですがね。トリックについてはそのうちこのタイプの奴ってあるんだろうなぁ、と思ってる矢先に出てきたので、ああやっぱり古典で使われてたのね、と納得。有名すぎるからあんまり出てこないんだね。てーことは今私が練ってる五芒星殺人事件(仮)のネタもどっかの古典でやられてるのかもしれない・・・。ミステリーって奥深すぎ。
85点。
参考リンク
オリエント急行の殺人posted with amazlet on 05.10.05