山本周五郎 さぶ
あらすじ
栄二とさぶは小舟町にある芳古堂という表具屋に奉公に出ている。
ある日さぶは芳古堂から飛び出していった。栄二はそれを追いかけていって連れ戻すのだが、さぶはそれを渋る。
飛び出した理由を聞くと、粉袋が出しっぱなしで、湿ってしまい使い物にならなくなったという些細なものだった。おかみさんがさぶにきちんと片付けるように言ったらしいが、さぶが言うにはおかみさんは一言もそんな事は言っていないらしい。どうせおかみさんの事だから、言うのを忘れたのだろう。
宥めるように言い含めるが、さぶは田舎の葛西に帰って百姓でもすると言い張る。
そこで栄二はかつて芳古堂の小銭を盗んで屋台の蒲焼を買っていたという事を話し出す。もちろんいけないことだとは分かっていたが、どうしても誘惑に勝つ事は出来なかった。二度三度繰り返しているうちにおかみさんに見つかってしまい、盗むのではなく欲しいのであれば言ってくれと言われたのだった。叱るでもなく、殴るでもなく、ただ淡々と言われた事が栄二には酷く恥ずかしかった。
自分は盗人だ。どうしようもない奴だ。
そう思って以来、店の金に手をつけるのをやめたのだった。
栄二は本当はその時店を飛び出して家に帰りたかったのだが、彼にはその帰る家が無いのだった。火事で家族を皆失った栄二は天涯孤独。その事をさぶに言ってみた。お前にはまだ帰る家がある。だが俺にはその家すらないのだと。それに手に職をつける為の苦労は仕方が無いのだと。
さぶはようやく帰る気になった。
それから幾年か経ち、二人は二十歳になった。
感想
多分この話が語られるたび繰り返されるのは題名が何故「さぶ」なのか?でしょう。言うまでもなく、本書の主人公は栄二です。主客転倒した題ですが、これで善いのです。素直につけるならば「栄二」若しくは「友」あたりなんでしょうが、著者がしっくり来なかったんでしょうな。
それにしても今まで読まなかったのが不思議なくらい周五郎の作品としては面白いです。中短編が多い中で、珍しく長めの本書ですが、まったく長く感じません。訥々と語る語り口は少々古くは感じるものの、分かりやすくかみ締めるようになっており、するすると臓腑の中に入っていきます。また、それだけではなく、ストーリー性に優れ、人間という物を巧みに描いているのです。罠に嵌められ抵抗する様など胃が熱くなるぐらい共感できました。やはり、復讐をあおるのはこぎみよいのですよ。ただそれだけではなく、絶望していく人間と回復していく人間の過程を描いてもおり、時代物であっても現代物であっても、人という物は大して変わり映えしないものなのだなぁと感慨に耽らせてもらいました。本書では私の琴線に振れる証の「残りページが惜しくなる症候群」が起きたので、間違いなくお勧めできます。
これを読んだ事で周五郎の作品が一層好きになりました。いくら古いからと云って、これ読まないのは勿体無いですよ。というか、日本語を読み書きできるのなら読むべきですよ。なお、周五郎の作品の中で一番好きなのははやっぱり赤ひげですが、二番目にこれを据えておきたいと思います。
まだ読んでいない残りの中長篇は
- 青べか物語
- 柳橋物語・むかしも今も
- 五瓣の椿
- 大炊介始末
- 虚空遍歴
- 季節のない街
- 正雪記
- ながい坂
- 栄花物語
- 天地静大
- 山彦乙女
- 寝ぼけ署長
- 彦左衛門外記
- 楽天旅日記
- 風流太平記
- 火の杯
- 新潮記
- 風雲海南記
あたりですか。いやはやまだまだ沢山ありますね。短編多作なイメージでしたが、そうでもないのですね。
周五郎はこれら以外にも短編集が20冊程度でているので、一挙に読むのは辛そうですが、ちびりちびりやっていく予定です。
92点。
今日の引用
「乱暴はならん」と松田はしゃがれ声でどなった。「乱暴な事をしてはならん、喧嘩や暴力沙汰は禁じられている、人は忍耐が肝心だ、こらえ性のない者は損をするぞ、ええい、そこだぶしゅう*1、しっかりやれ」
「おまえは気がつかなくとも」と岡安はひと息ついて云った、「この爽やかな風にはもくせい*2の香が匂っている、心をしずめて息を吸えば、おまえにもその花の香が匂うだろう、心をしずめて、自分の運不運をよく考えるんだな、さぶやおすえという娘のいる事を忘れるんじゃないぞ」
山本周五郎 「さぶ」より