西尾維新 ニンギョウがニンギョウ

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あらすじ

  • ニンギョウのタマシイ

十七番目の妹が死んだので好きでもない視覚情報を手にするため主人公は映画館へ向かう。

  • タマシイの住むコドモ

五番目の妹に指摘されるまで気がつかなかったが主人公の右足が腐り始めていた。どうやら映画を見たのがいけなかったようだ。妹に先導して貰い主人公は人体交換屋へ向かう。

  • コドモは悪くないククロサ

五年間寝ていた主人公。起きたてへ来客が来たという。果たして相手はあの熊の少女だった。

  • ククロサに足りないニンギョウ

熊の少女が住まう山が炎上全焼したという。それをきっかけとして主人公は有る事実に気がつく。

感想

西尾維新十一冊目。未だにネコソギラジカルに手を付けずに先にこちらを読むのもアレなんだけれども、成り行きですから仕方ないです。ペラッペラの本ですから時間もかからなかったのが救いですかね。
先に言っておきます。これは西尾維新らしさというより、『戯言遣い』としての側面がクローズアップされた話です。当然初めてこの作者の本を何か読んでみようと思って手に取ることは100%止めた方が無難です。というより止めてください。絶対に拒否反応が出るはずですから。一通り読んだ後でも多分アクの強さでは群を抜いているのでほとんど「地雷本」、「壁本」の類です。それをまず胸においてください。

この小説を語る上で欠かせないのは戯言遣いと言うことと妹というファクターなのでしょう。なにしろ戯言遣い戯言遣いによる戯言遣いのための文章で出来ているんですから。故に一文ではそれほどおかしくない文章も段落で読んでいくと実に奇妙奇天烈な前後の意味が繋がらないものになってしまったりするのです。元々そういうように作られている物なので、どうこう言った所でどうにもならない話なのですが・・・。作品世界はこの世界とは別の因果律、おそらくは「混沌」と呼ばれる「ロジック」とは真逆の物で構成されていると思われます。「卵が先か鶏が先か」ということになると恐らく同時に生じたとでも説明されるような世界でしょうから。主人公の「兄」が例え三足の靴を履こうとも別段何処にも不自然はない世界ですから。そう戯言遣いの面目躍如たる小説なのです。
さて、もう一つの要素妹についても書くことにします。なにはともあれ妹なのです。どうなろうと妹なのです。すべての道は妹へ通じるのです。狂気とも平安とも取れるが、否どちらでもなく妹なのです!
23人の妹。それはもはや狂気のキチガイの沙汰です。妹を狂気たらしめているシスタープリンセスですら十二人しか妹は居ません。本書ではそれは倍しているわけです。果たして作者はいかような心持ちでこの話をしたためたのでしょうか。それは作者のみ知る所でなのでしょうが、やはり妹属性が関わっているのでしょう。妹属性のない私にはどうにも理解しかねる話なので理解しようとすることすら愚かな話です。ま、結論として
西尾維新は妹大好き」
が確定しただけの話です。「だから何?」とか聞かないでください。理解の範疇にないのですから答えられるわけがないです。「そうである」という確固たる部分はこのあたりだけなのですから。

まぁ、狂気沙汰は横に置くとしてもうちょっと理性的に分析するとすればこの話は童話なのです。メルヘンなのです。熊の少女は歌のアレか、さもなければ黄色くて赤いシャツを着たぬいぐるみのような物なのです。いや、類推に過ぎないので確定ではないですが。それに本作を最後まで読んでしまえばこんな言葉はまさに「戯言」に過ぎないわけですが。
え、騙すつもりはありませんよ。あくまで正確を期すならばそんな感じなんですよ。ウサギ穴に落ちた少女の話や銀河鉄道に乗る話と同列なんです。不可思議で道理が通らなくてレトリックで世界をまとめる、そんな話なんです。
これをこのまま愉しむのは少し難しいでしょう。例えば本作の中で何回「妹」という単語が出てきたとか、地の文に書かれた言葉は何回有ったとか、二十三人の妹について判明していること以外のことを妄想するとか・・・、よっぽど愛着がなければ出来かねる話ですがね。
まとめ
『この本を読むモノは一切の望みを捨てよ』
50点。
蛇足:意味?意味なんて無いんですよ、戯言ですから。Everything is nonsense.

参考リンク

ニンギョウがニンギョウ
西尾 維新
講談社 (2005/09/06)
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