小川洋子 博士の愛した数式

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あらすじ

あけぼの家政婦紹介組合から紹介された仕事は少し変わった物だった。老年の男性の身の回りの世話をする、それは家政婦として働いていればごく普通の範疇に入る。だが、当人に会う必要は契約を結ぶときに現れた老婦人から必要ないと言われた。
「今日あなたと顔を合わせても、明日になれば忘れてしまいます。ですから、必要ないのです」
そういった老婦人の説明によると、当人は1975年以来記憶の蓄積が出来なくなっているとのことだった。短期記憶の存続可能時間は80分。丁度一時間と二十分きっかりであらゆる記憶が無かったことになってしまうらしい。
また老婦人は一つ注文を付けた。母屋と離れは行き来せず、離れで全ての始末を付けること。二人の関係は義理の姉と義理の弟、老婦人の亡夫の弟らしい。あまり意味らしい意味を見出せぬまま、「その家の家風」というお題目に沿って生活する家政婦としては異議を差しはさむ訣にもいかない。
そして私はその後私が博士と呼ぶ事になる老年の男性の世話を焼く仕事に就いた。
博士は数学者であるらしい。記憶の機構が破壊されている男性が働くわけにもいかないので数学雑誌の懸賞を解いて僅かな賞金を手にしているらしいのだが、それで生計が経っているわけでもなさそうだ。問題を解くことは博士の生きがいなのだろう。初日に付けられた注文は「私が考え事をしているときに煩わしくするな」であった。博士は短い記憶を維持しながら数字と格闘することが全てだったのだ。だから身の回りも気にしないし生活は離れの中で閉じている。実際博士の格好は季節を問わずスーツ姿だった。クリーニングから帰ってきた服をいつも頓着せずに着ている。ただそのスーツには普通は見られない物が多数くくりつけられていた。消えていってしまう記憶を出来る限り留めるために沢山のメモ用紙が雑然と鎮座していたのだ。
博士との会話は常に数字を介して行われた。博士は毎朝知らない家政婦である私とのコミュニケーションをとる方法として誕生日だとか電話番号だとかの数字がいかに素晴らしいかという秘密を私に教えてくれた。普段生活をしている中では絶対に気がつかない素数が博士の大好物だ。おかげで私も段々と難解な数学にちょっとだが興味がわいてきた。
博士との生活の中で最も影響を受けたのは私の息子だろう。博士がルートとあだ名を付けた息子の頭は絶壁頭で確かにルート記号に見えないこともなかった。博士は意外なことに子供好きで、家政婦という仕事柄一人っきりにさせている息子のことを話すと子供をほったらかしにしていることが気にかかり、以後学校から帰ったら博士の住む離れへ通わせるようにさせた。そうして二人の交流は始まったのだ。

感想

小川洋子四作目。
作者の代表作と云える本作をようやく読めました。映画化して有名になった本作ですが、個人的にはちょっと物足りないかな。
この本は数学が嫌いな人でもちょっと見方を変えることで面白くなる、ということを教えてくれます。故に数字に興味が無い人こそ楽しめる本に仕上がっていますが、ストーリーは基本的に一本調子です。起伏に富む話の展開じゃないので「記憶が80分しか保たない」というしみじみとした"もののあわれ"をどう受け止めるのかによって評価は変わるのではないでしょうか。
それにしても他作品は幻想風味が強い文学作品という指向が強い様なのに、本作は大衆作品臭いですねぇ。これはちょっと意外。どっちかっていうと暗めの支離滅裂な話が普通だったのに、こういうほんのりほんわか話を書かれると路線変更したのかなぁと勘ぐりたくもなります。こういう話というと梨木香歩が連想されるわけですが、ついさっきまで脳内で梨木香歩小川洋子を誤認してましたよ。『西の魔女が死んだ』の様な「終の世代とこれから伸びる若人を繋ぐ」タイプの話が好きなんだろうなぁ、っていう論を展開しようと思っていたけれど作者を間違ってちゃそりゃ無理だわw。
まぁ、『貴婦人Aの蘇生』っていう似たような状況はあるにはあるけれど、こちらは比べものにならないぐらいどこかリアルに加齢臭を感じさせるちょっと陰湿な話だからねぇ。陽性に転換するとこうなるのかもしれない。
この本になにか感動を求めている人は肩すかしを食らうことになるでしょう。でも毛色の変わった本としては悪くないかと。数学的な部分とストーリー的な部分を絡ませるのは作者は難渋したでしょう。よくもまぁ数学テーマでかけたなぁと思います。
ただ、その分医学テーマの「記憶の失調」については腰砕けです。「80分しか記憶が保たない」という一言で力業に出ています。同じ記憶の喪失*1を描いた萩原浩の『明日の記憶』の方がサスペンス感も喪失も秀でているのではないでしょうか*2。こちらも丁度映画化ということなのでチェックするのも佳いかもしれません。
記憶には三つの段階があります。「記銘」で覚え込み、「保持」でそれを維持し、「追想(あるいは想起)」で思い出すというわけです。本作では込み入った説明が一切無いので恐らく「保持」機能の障害なのでしょう。現状脳障害克服は難しいですから現実的な落とし所はこの作品の終盤あたりが妥当でしょうねぇ。
驚きは多くないですがそれなり。
70点
むしろ作者の意外性みたいな部分が驚きになるかもしれない。他作読まないとアレだけどね。

参考リンク

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小川 洋子
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*1:こちらは若年性アルツハイマーだけどね

*2:ただ、個人的にはネタが誰かの後追い的な作品が多いように思うのであんまり作者の荻原浩は好きじゃない